2012年07月一覧

第436話 2012/07/07

地名接尾語「が」

今日は松山に向かう特急しおかぜ3号に乗っています。午後から「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演します。テーマは太宰府市出土「戸籍」木簡を中心とする九州王朝の文字史料の説明です。年に一度、四国の会員の皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
また、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)の「越智国論」や、今井久さん(会員・西条市)が発見された「紫宸殿」地名、万葉歌のニギタツ比定地な ど、当地は古代史研究のホットスポットでもあり、古田学派や「古田史学の会」が重視している地域なのです。観光や研究旅行地としてもおすすめです。
さて、前話で地名接尾語「ま」について述べましたが、この古語の「ま」の意味はおそらく、「一定の領域・距離・時間」のことと考えられますが、同じ地名接尾語でもその意味がどうしてもよくわからないものに、「が」があります。
私の姓の古賀もその一例で、古賀家は元々は星野姓を名乗っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)に敗れて、本家は討ち死にし、生き残った一族は散り 散りバラバラとなり、わたしのご先祖は浮羽郡の古賀集落に土着したことにより、古賀姓を名乗ったとされています。すなわち地名の古賀に由来した姓なので す。ちなみに新潟県小千谷市まで逃げた一族もいます(小千谷市に星野姓が多いのはこのためです)。
古賀のように、末尾に「が」がつく地名はたくさんあります。たとえば、佐賀・嵯峨・滋賀・伊賀・甲賀・加賀・多賀・山鹿・羽賀・敦賀・古河・足利・男鹿・蘇我・春日などです。このように多くの地名に接尾語「が」が見られるのですが、その意味がよくわからないのです。
役所のことを「官が」ともいいますから、何か関係があるのかもしれませんが、そう言い切れる自信はありません。これからも悩み続けようと思っています。


第435話 2012/07/06

地名接尾語「ま」

第434話で地名接尾語の「ま」についてふれましたが、昨日、富山県魚津市や富山市を訪れて、富山(とやま)の「ま」も同じく地名接尾語の「ま」ではないかと気づきました。
というのも、富山市付近には「と」山と呼ばれるような著名な山もないようですし、地名語源についても納得できるような説もみあたりません。したがって、「とや」が地名の語幹で、それに地名接尾語「ま」が付いたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに、地名接尾語「ま」がついたと思われる地名として、前回紹介したもの以外にも次のようなものがあります。筑摩・練馬・鹿島・吾妻・三潴・但馬・ 大間・入間・宇摩・球磨・鞍馬・浅間・志摩・中間・群馬などです(個別の検証はおこなっていません。試例としてご理解下さい。)。
これら地名接尾語「ま」の応用地名として「まつ」があります。すなわち「ま」津で、港がある地名のケースです。この場合、「まつ」の当て字として「松」 が多用されています。たとえば、高松・浜松・小松・若松・下松・黒松などですが、今津というような、「松」の字を使わない例もあります。
したがって高松の場合、「たか」+「ま」+「津」で、地名語幹は「たか」です。同様に浜松の地名語幹は「はま」となります。今まで何となく浜辺に松林が あるから「浜松」と思っていましたが、地名接尾語「ま」と港を意味する「津」との合成語地名であることに気づいたのです。こうした視点から、日本各地の地 名を見直すと、歴史的にもおもしろいことが見えてきそうです。
なお付言しますと、「山(やま)」「浜(はま)」「島(しま)」などの基本的地形名詞の「ま」も、地名接尾語「ま」と同類と推測しています。日本語成立の過程を考えるうえでヒントになるのではないでしょうか。


第434話 2012/07/04

九州王朝の「豊国副都」試案

今日の午前中は三重県四日市方面を訪れ、今は富山県高岡市のホテルです。ところで、近鉄電車の四日市駅から南へ二つ目の駅名が「海山道」というの ですが、何と訓むのかご存じでしょうか。わたしはてっきり伊勢に向かう古代官道の名残で「かいさんどう」とでも訓むのかと思っていたら、車内アナウンスで 「みやまど」と聞き、すごい当て字だなと驚きました。
おそらく、本来の語義は「宮ま戸」あるいは「御屋ま戸」ではないでしょうか。神殿か有力者の館の入り口(戸)という意味です。「ま」は須磨・播磨・多 摩・薩摩・相馬などと同じ地名接尾語です。もちろん、海山道の現地調査などをしていないので、わたしのアイデア(思いつき)にすぎません。あまり信用しな いでください。なお、わたしの携帯ワープロ(ポメラ)は「みやまど」と打つと、一発で「海山道」と変換し、妙に感心しました。
さて、本題に入りますが、このところ太宰府市出土「戸籍」木簡の研究に夢中になっているわたしですが、実はもう一つ重要な遺跡発見の新聞発表が6月8日 にあったのをご存じでしょうか。九州歴史資料館(福岡県小郡市)からの発表によると、行橋市南泉の福原長者原(ふくばるちょうじゃばる)遺跡で、奈良時代 の九州最大級の役所跡が見つかりました。まだ、遺跡の全てが発掘されているわけではありませんが、規模的には大宰府政庁に匹敵するとのことです。
新聞の解説では「8世紀の豊前国府跡か」とのことでしたが、豊前国府跡は別にありますから(みやこ町。行橋市南泉の南)、何とも不思議な記事でした。両者は時代が異なるとも説明されていましたが、編年がころころ変わるのも納得できません。
わたしは以前に九州王朝の「五京制」の可能性について論文(注1)で触れたことがあるので すが、その「五京」候補の一つとして豊前の京都郡を指摘しました。その理由は北部九州に位置する「ただならぬ地名」だからでした。その後、わたしの研究も 進み、九州王朝の副都という概念が明確となったこともあり、今回発見された九州最大級の遺跡は、「豊国副都」の可能性を感じさせるのです。現時点では、考 古学編年や遺跡の詳細がわかりませんので、とても断定はできませんが、一試案として「豊国副都」作業仮説をこれから検討したいと思います。まだまだ史料根 拠が不十分ですので、間違っている可能性もありますので、これもあまり信用しないでください。
なお、この「豊国副都」試案は、いわゆる「豊前王朝」説とは全く異なる概念ですので、誤解なきよう念のため申し添えておきます。

(注1)「九州を論ず」『市民の古代』15集所収、1993年。その後、『九州王朝の論理』(明石書店)に転載。
(「洛中洛外日記」読者の方からも、今回の遺跡発見ニュースのご連絡をいただきました。ありがとうございます。)

参考資料

福原長者原遺跡現地説明会資料を7月7日リンク致しました。


第433話 2012/07/03

『「九州王朝」の研究』(仮称)の出版企画

先日、ミネルヴァ書房の田引さんとお会いし、新たな書籍出版の企画について話し合いました。田引さんからは、古田史学に基づいた各地の遺跡や遺 物・博物館などの「歴史散歩」ガイドブックを古田史学の会で編集してほしいとの御提案をいただきました。もちろん大賛成ですので、古田史学の会の役員会に はかることをお約束しました。
田引さんとの打ち合わせの結果、まずは「九州編」から始めることになりそうです。来年秋には脱稿して欲しいとのことですので、編集チーム作りと現地会員 への協力要請を行い、取り上げるスポットの選考を行うことになるでしょう。「九州編」が成功したら、次は「近畿編」「東海編」「関東編」「東北・北海道 編」「中国・四国編」などへと発展できれば素晴らしいと思います。従来から、古田史学による遺跡の紹介・解説をした書籍発行への要望が大きかったので、是 非、実現できればと思います。
わたしからは、昨年末発行していただいた『「九州年号」の研究』の姉妹編として、『「九州王朝」の研究』(仮称)の発行を提案しました。前著は「九州年 号」という切り口で九州王朝の実像に迫りましたが、『「九州王朝」の研究』では、多面的な視点から九州王朝の全体像に迫りたいと考えています。具体的に は、この20年間での九州王朝研究における優れた論文を採録し、九州王朝史年表や新たに発表される最新の論稿も掲載したいと考えています。
完成まで数年かかると思いますが、皆さんのご協力をお願いします。