2012年09月一覧

第463話 2012/09/04

太宰府「戸籍」木簡の「川ア里(川辺里)」

 今、新潟へ向かう特急北越7号の車中です。左には夕日に映える富山湾、右にはごつごつとした立山連峰(剣岳か)の稜線がちょっと不気味で神秘的です。 ---

 さて、久しぶりに太宰府出土「戸籍」木簡について触れます。8月の関西例会で、わたしは大宝二年の筑前国嶋郡川辺里戸籍断簡(正倉院文書)につい
て解説したのですが、そのときにわたしが勘違いしていたことについても説明しました。それは、太宰府出土「戸籍」木簡に「川ア里」(アは部の略字)とあったので、同「戸籍」木簡は全て川ア里を対象とした「籍」記事と理解していたのですが、それがどうも勘違いだったようなのです。
同「戸籍」木簡には「建ア(たけるべ)」姓や「占ア(うらべ)」姓が記されており、大宝二年の「川辺里」戸籍断簡にも多数の「建部」姓や「卜部(うらべ)」姓が見えることもあって、両者は共に川辺里の「戸籍」のことと、わたしは当初判断していたのです。しかし、同「戸籍」木簡をよく読むと、木簡上部冒頭に「嶋評」とはありますが、何という「里」を対象としたものかは記されていません。あるいは判読できていません(木簡上部に「嶋一□□」という判読不明文字があります)。

 木簡中の「川ア里」という文字は人名などの記事の途中に記されており、これは、その前あるいは後の人物が「川ア里」に関係する人物であることを「注記」しているのであり、木簡に記された人名すべてが「川ア里」の人々であることは意味していないということに気づいたのです。
もし全員が「川ア里」の人であるならば、文の途中で「川ア里」とわざわざ記す必要はありません。むしろこの木簡は「川ア里」以外の別の「里」の人々の出入り増減を記したものと理解すべきではないでしょうか(同木簡には「又附去」「又依去」という記事もあり、人物の移動を示しているようです)。その中のある人物が「川ア里」に移動したことを注記するために、「川ア里」という地名が文章の途中に記されているようなのです。

 少なくとも、そうした可能性の検証なしに、すべて「川ア里」の人物を対象とした「戸籍」木簡と見るべきではなかったのです。
同「戸籍」木簡中の「嶋評」「川ア里」という地名に目を奪われた、わたしの錯覚だったようです。史料批判は慎重な上にも慎重に行わなければならないと痛感した勘違いでした。

 --- 車窓は漆黒となりました。もうすぐ目的地の長岡に到着します。


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第461話 2012/09/02

九州歴史資料館(小郡市)を初訪問

 昨日、久留米大学公開講座で講演を行いました。「久留米は日本の首都だった — 九州王朝史概論」というテーマで、講演冒頭に「久留米は日本の首都 だった」という胡散臭い演題ですので疑いながら聞いてください、と前置きして中国史書(隋書・旧唐書)に見える「倭国」「日本国」について説明しました。
 おかげさまで、大勢のみなさまに御聴講いただき、盛会でした。最後の質疑応答の時間も、次から次へとご質問をいただき、かなり時間オーバーとなってしまい、主催者にご迷惑をおかけしたのではないかと思っています。久留米大学の福山先生やご協力いただいた久留米地名研究会の古川さんらに御礼申し上げます。
 その前日の8月31日には、弟(古賀直樹)の案内で小郡市に移転した九州歴史資料館を初訪問しました。以前は太宰府市にあったのですが、新しくできた同館にはまだ行ったことがありませんでした。当初は太宰府市の国立九州博物館に行くつもりでしたが、ネットで展示内容を調べたところ、それほど関心のある内容ではなかったので、九州歴史資料館訪問に急遽変更したのです。
 この判断は大正解で、わたしが見たかった太宰府や観世音寺関連の遺物が多数展示してあり、大変勉強になりました。特に、大野城出土「孚石都」刻字木柱、 観世音寺や大宰府政庁2期編年の根拠とされた老司式瓦などが実見できて感動しました。いずれも九州王朝にふさわしい優美さを感じられました。同館入場料は 200円(駐車場は無料)と良心的です。是非、皆さんも訪問されてはいかがでしょうか。まだ真新しくとても美しい建物です。ただし、遺跡や遺物の「解説」 はみごとに旧来の大和朝廷一元史観に基づいていますので、この点は期待されないほうがよいと思います。