2012年12月一覧

第512話 2012/12/31

難波宮の礎石の行方

 2012年最後の洛中洛外日記です。12月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題とし て何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現 大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
 このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。お面白いご意見でしたので、このことを大阪歴博学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さんに尋ねました。
 「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡?』大阪市文化財協会、2002年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
 難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
 前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたという ことになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。こうしたことも歴史研究の醍醐味といえるでしょう。
 さて、本年最後の洛中洛外日記もこれで終わりますが、ご愛読いただいた皆様に御礼申し上げます。それでは良いお年をお迎えください。


第511話 2012/12/30

難波宮中心軸のずれ

 大阪歴博の学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんとの問答は多岐にわたりました。李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論稿も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
 李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約7分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第13』2005年)。極めて微妙なぶれですが、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それ に対する李さんの解説が見事でしたので、ご紹介します。
 わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(686年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
 更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は686年に焼失した前期 難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・726)まで残っていたことを意味します。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
 さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
 李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。二人の問答はさらに続きました。(つづく)


第510話 2012/12/29

歴博学芸員・李陽浩さんとの問答

 先日、大阪歴史博物館を訪問しました。三度目の訪問です。二階のなにわ歴史塾で前期難波宮のことなどを教えていただくのが目的です。今回の「相談員」は同館学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さん。建築学・建築史が専門の考古学者で、前期難波宮についてとても詳しい方で、何を聞いてもただちに発掘調査報告書を提示して、懇切丁寧に説明していただきました。

 今回の質問も前回と同様で、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、 もしそうであればその根拠は何かというものでした。李さんは小森さんの著書とこの説についてよくご存じで、次のような回答がなされました。

 須恵器1様式の期間が20~30年とは一般的にいわれている見解ですが、厳密にいうと、新たな様式が出現する「周期」が約25年程度ということで、その 様式が何年続くかは個別に異なるということでした。すなわち、ある様式が発生し25年ほどたつと新様式の土器が出現しますが、それにより前様式の土器が地上から消えてなくなるわけではないということでした。また、土器様式の寿命はそれほど短くはないともいわれました。

 この説明なら、なるほどよくわかります。その上で、李さんが何度も強調された言葉に「クロスチェック」が必要、というものがありました。土器の相対編年だけでは、土器発生の先後関係がわかるだけなので、絶対年を決定するさいには、土器様式相対編年以外の方法や原理に基づいた別の根拠による「クロスチェッ ク」が必要ということです。

 具体的には、年輪年代測定や干支木簡、あるいは文献との整合性で「クロスチェック」しなければならないということでした。これは、古田先生が主張されて いる「シュリーマンの法則」と同じ考え方で、考古学出土事実と文字史料などによる伝承とが一致すれば、それは史実と見なしうる、あるいはより真実と考えら れるという方法です。

 このデータのクロスチェックという方法は自然科学では当然のようになされる基本作業なのです。たとえばわたしの専門の有機合成化学であれば、実験データ だけではなく、その合成方法も記載しなければ学術論文として認められません。なぜなら、合成方法が明示されていれば、他の化学者により実験データが正しい かどうか「再現性試験」が可能だからです。そして、その再現試験結果データと論文のデータがクロスチェックされ、その論文が正しいかどうか判断されるわけです。

 自然科学では当然とされる「クロスチェック」が、考古学編年においても必要であるというのが李さんの返答の核心でした。この点、小森さんの論文は土器様式の相対編年のみで、他の方法に基づいたデータとのクロスチェックがなされていないと批判されました。その上で、前期難波宮整地層の土器編年は水利施設出 土木わくの年輪年代(534年)などによるクロスチェックを経ており、前期難波宮が七世紀中頃の造営であることは動かないとのことでした。

 ちなみに、前期難波宮水利施設出土木わくの年輪年代(534年)については、2000年に出された「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会)で報 告されていますが、その後(2005年)に出された小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には、どういうわけかこの水利施設出土の年輪年代の報告については触れられていません。(つづく)


第509話 2012/12/27

NHK大河ドラマ「平清盛」雑感

 NHK大河ドラマ「平清盛」が終わりました。巷では視聴率が最低だったとか、場面が暗い汚いなどと散々な評判のようです が、わたしはなかなかの名作と思いました。NHK大河ドラマで、わたしが全編を見たのは「平清盛」と「龍馬伝」だけです。どちらも面白かったのですが、平 安時代末期という時代背景や、登場人物の名前が「平○○」「源○○」「○○法皇」「○○上皇」ばかりで、わかりにくかったことも視聴率低迷の要因かもしれ ません。
 しかし、わたしは平安時代の勉強になりましたし、場面の多くが地元の京都市内ということもあって、とても身近に感じられました。それと豪華俳優陣、中でも常盤御前(牛若丸の母)役の武井咲さんや、清盛の妻・時子役の深田恭子さんらの平安時代の衣装をまとった美しさも魅力的でした。清盛役の松山ケンイチさ んの演技や特殊メイクも回を追うごとに迫真さを増し、良かったと思います。この「平清盛」は後世必ずや再評価されるに違いありません。
 古代から中世に移る源平の時代ですが、鎌倉時代に入ると、それまで諸史料に散在していた九州年号が、各種年代暦や『二中歴』(鎌倉時代初頭の成立)などの文献に「九州年号群」史料としてまとまって出現・成立するようになります。この現象を、近畿天皇家という古代王権が衰退したため、別王朝(九州王朝・倭国)の年号である九州年号の「使用」「記述」がはばかられなくなったためと、わたしは理解してきました。ところが、どうもそれだけではないのではないかと思うようになりました。
 もしかすると、中世以降の文献に九州年号が「頻繁」に出現するようになったのは、本当に九州王朝の存在が忘却されたため、別王朝の年号という認識が無いまま「使用」「記述」されたのではないでしょうか。その証拠として、ほとんどの九州年号使用「年代暦」などは、6~7世紀の九州年号が701年からは近畿天皇家の「大宝」年号へと「継続」した表記となっているからです。何者かはわからないまま、古代史料に遺された九州年号を近畿天皇家の年号と「同類視」 し、両者を疑うことなく「継続」表記させたと思われるのです。
 もちろん、例外もあります。江戸時代成立の『襲国そのくに偽僭考』などのように、明確に「九州年号」という表記があり、このことから九州年号を「九州地方の年号」とする認識がうかがわれます。宇佐八幡宮文書にも「教到」を「筑紫の年号」と記されている文書のあることが知られています。これも、九州年号を「筑紫地方の年号」と理解していた痕跡です。
 こうした若干の例外はあるものの、ほとんどの場合は九州王朝の存在が忘却され、「九州年号」が「使用」「記述」されているのです。こうした九州年号史料の日本思想史的な考察・研究も、これからの古田学派の仕事でしょう。
 さて、来年の大河は「八重の桜」です。綾瀬はるかさん演じる山本八重(同志社創立者新島嬢の妻)の生涯をドラマ化したものです。わたしの娘の母校である同志社大学からも新島八重の生涯を漫画で綴った小冊子が送られてきました。なかなかの力の入れようですが、創立者の奥さんの生涯がNHK大河ドラマとなるのですから、当然でしょう。人気女優の剛力彩芽さんや黒木メイサさんも出演されるとのことで、来年の大河ドラマも楽しみにしています。


第508話 2012/12/23

『古田史学会報』113号の紹介

 新年1月12日(土)には恒例の賀詞交換会を大阪(大阪駅前第2ビル4階)で開催し、古田先生のお話をうかがいます。ぜひご参加ください。賀詞交換会の後には懇親会も開催しますので、参加希望者は当日会場でお申し込みください。
 翌週の19日(土)には古田史学の会・関西例会を開催しますが、会場がいつもとは異なりますので、ご注意ください(大阪中央区民センター)。
 『古田史学会報』113号が発行されましたのでご紹介します。

〔『古田史学会報』113号の内容〕
○古田史学の会・四国 例会百回記念講演会  豊中市 大下隆司
○賀詞交換会(古田先生を囲んで)の案内
○「八十戸制」と「五十戸制」について  札幌市 阿部周一
○『書紀』「天武紀の蝦夷記事にいて  川西市 正木 裕
○前期難波宮の学習  京都市 古賀達也
○会報投稿のコツ  編集長 古賀達也
○割付担当のヨタ話? 玉依姫・考  西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記


第507話 2012/12/22

九州王朝の天子たち

 九州王朝が百済救援のため、唐・新羅連合軍との「開戦の詔勅」が『日本書紀』斉明紀六年条(660)にあったことを述べ ましたが、それではこの詔勅を出した九州王朝の天子は誰でしょうか。『日本書紀』に散見される「伊勢王」という不詳の人物がいるのですが、この伊勢王の死亡記事が斉明七年(661)六月条にあります。
 この斉明七年にあたる661年には九州年号が白鳳に改元されていますから、伊勢王が九州王朝の天子であれば、その死去により改元されたこととなります。 この伊勢王を九州王朝の天子とする研究については、正木裕さんによる詳細な論稿がありますので、ご参照ください(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、「伊勢王と筑紫君薩夜麻」『古田史学会報』86号、他)。
 正木さんの研究によれば、伊勢王は九州年号の常色・白雉年間に評制を施行し、白雉元年(652)には「難波遷都」した天子とされています。九州王朝最後 の天子とされる筑紫君薩野馬(明日香皇子)の父親でもあります。こうした研究成果によれば、七世紀におる九州王朝の歴代天子の系譜は次のように考えられま す。

 阿毎多利思北弧(上宮法皇) 端政元年(589)即位~倭京五年没(622、法興32年) ※筑後から太宰府に遷都(倭京元年)。遣隋使を派遣。九州島を「九州」に分国。
 利歌彌多弗利(カミトウの利) 仁王元年(623)即位~命長七年(646)没 ※多利思北弧の太子(「聖徳」太子か)。
 伊勢王 常色元年(647)即位~白鳳元年(661)没 ※評制を施行。難波遷都。
 筑紫君薩野馬(薩夜麻) 白鳳元年(661)即位~? ※おそらく701年以後の没。白村江戦の戦いで唐の捕虜となり、天智十年(671、白鳳十一年)帰国。

 おおよそこのような系譜が想定されます。もちろん、今後の研究の進展により修正がなされるかもしれませんが、大きくは間違っていないと思います。


第506話 2012/12/21

九州王朝の「開戦の詔勅」

 九州王朝が同盟国の百済復興のため、唐と新羅の連合軍と戦い、白村江の海戦で大敗北を喫し、その後滅亡へと進みました。白村江戦は九州王朝史のクライマックスシーンの一つでしょう。
 この白村江戦にあたり、九州王朝では「開戦の詔勅」が出されたはずと最近考えていました。そこで、『日本書紀』にこの「開戦の詔勅」が遺されているので
はないかと、斉明紀を読みなおしたところ、やはりありました。斉明六年(660)十月条です。百済からの援軍要請と、倭国に人質となっていた百済国王子豊
璋を帰国させ王位につけたいという百済側の要請に応え、百済支援の詔勅が出されています。
 もちろん、『日本書紀』編纂時の造作かもしれませんが、『日本書紀』には九州王朝史書の盗用がかなり見られますので、この「開戦の詔勅」も同様に九州王朝史書からの盗用と思われます。
 わたしはこの「開戦の詔勅」中の次の文が気になっています。

 「将軍に分(わか)ち命(おほ)せて、百道より倶(とも)に前(すす)むべし。雲のごとく会ひ雷のごとく動きて、倶に沙喙(さたく)に集まらば、(以下略)」

 沙喙(さたく)とは新羅の「地名」(六部の一つ。行政地域名)とされており、百道からともに進み沙喙に集まれと命じているのです。沙喙が実際に新羅にあった「地名」ですから、「百道」も具体的な倭国内の地名ではないかと考えたのです。
 というのも、「百道」とは数詞としての「100の道」とは考えにくいのです。たとえば『日本書紀』では数詞の100であれば、「一百」と記すのが通例で
す。「一」がつかない「百」の場合は、国名としての百済(くだら)や人名の百足(ももたり)などのように固有名詞の一部に使用されるケースと、「百姓」
「百僚」などのような成語のケースがあります。「百道」が固有名詞(地名)か成語かはわかりませんが、もし地名だとすれば、博多湾岸にある地名「百道(も
もち)」との関係が気になるところです(早良区、福岡市立博物館などがあります)。
 斉明六年の詔勅中の「百道」を博多湾岸の「百道(ももち)」ではないかとするアイデアは、二十数年前に灰塚照明さん(故人。当時、「市民の古代研究会・
九州」の役員)からうかがった記憶があり、以来、気になり続けた問題の一つでした。今回、九州王朝の「開戦の詔勅」というテーマから再考していますが、そ
の可能性はありそうです。(つづく)


第505話 2012/12/15

「多元的木簡研究会」のすすめ

 本日の関西例会で、わたしは「平成24年の回顧」を発表しました。内容は「洛中洛外日記」第504話で紹介したものですが、その中で「多元的木簡研究会」の発足を伝え、会員を募りました。

 「多元的木簡研究会」への入退会は自由で(会費不要)、会員資格要件は「年に一つ以上の木簡に関する論文・報告を発表すること」だけです。会員特権は発表した論文の内容が良ければ「古田史学会報」やHP「新・古代学の扉」に掲載され、将来的には書籍として発刊されるということです(共著者として名を連ね ます)。入会申し込みと論文投稿は古賀までお願いします。なお、多元的木簡研究会の代表・主筆は正木裕さんです。

 例会の発表テーマは下記のとおりでした。原幸子さんの、草薙の剣が盗難の後、一時、大阪の住吉大社にあったという報告は、初めて聞く内容で興味深いものでした。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 天皇家の名字は「シキ」(向日市・西村秀己)
2). 縄文人東テイ(魚是)国vs弥生人倭国のゲノム(木津川市・竹村順弘)
3). 古田史学の会「平成24年の回顧」(京都市・古賀達也)
4). 難波宮跡(NW-12-4次)発掘調査現地説明会資料の解説(京都市・古賀達也)
5). 朱鳥改元(奈良市・原幸子)
6). 吉野行幸「丁亥」不在問題と孝徳葬儀の34年遡上理由(川西市・正木裕)
7). すり替えられた南方諸島支配(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・「発掘で明らかになった長屋王の実体」・長屋王は九州王朝を継ぐべき皇子・田中卓『古典籍と史料』の「古事記裏書」(最古の古事記注釈書)・その他


第504話 2012/12/14

平成24年の回顧

 昨年に続いて、年末にあたり平成24年を回顧してみます。もちろん「古田史学の会」関連の個人的学問的な関心に基づいたものです。順不同ですが、印象の強いものから取り上げてみます。

1.太宰府出土「戸籍」木簡の衝撃
やはり今年の筆頭はこれでしょう。九州王朝の時代の「戸籍」関連木簡が太宰府から出土したのですから、九州王朝末期の王朝中枢領域の研究にとって第一級の文字史料です。

2.市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』と多元的木簡研究
太宰府「戸籍」木簡出土を契機に、古田学派では木簡に関する関心が一段と高まりました。その同時期に中公新書から刊行された市
大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』は一元史観に立脚したものとはいえ、最新の木簡研究の成果が記されており、わたしも大変勉強になった一冊です。
これらを契機に「多元的木簡研究会」(略称:たも研)を発足させることになりました。

3.新人論客の登場
札幌市の阿部周一さんが彗星のように登場され、次々と研究論文を投稿されています。会報掲載が間に合わないほどの投稿ペースです。さらなる研究の深化が期待されます。

4.観世音寺創建年史料の発見
阿部周一さんから『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)が紹介され、その中に白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることをお知らせいただきました。
また、井上肇さんから送っていただいた『勝山記』にも観世音寺の創建年が白鳳10年と記録されていました。観世音寺創建年については、『二中歴』では
「白鳳年間(661~683)」とされているのですが、具体的年次は不明でした。今回の「発見」により、創建年が明らかとなり、太宰府編年研究が前進しま
した。

5.越智国の「紫宸殿」「天皇」地名
西条市(旧・東予市)に字地名「紫宸殿」とその近傍に字地名「天皇」があることが、「古田史学の会・四国」の今井久さんらにより報告されました。この発見により、古代越智国の位置づけや九州王朝論に新たな展開が期待されています。

6.合田洋一著『地名が解き明かす古代日本』
合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同四国の会事務局長)が『地名が解き明かす古代日本』(ミネルヴァ書房)を上梓されました。地名を多元史観・九州王朝説により考察されたもので、古田史学の新たな分野と可能性を拓かれました。

7.中国にあった「聖徳太子」九州年号史料
名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から、聖徳太子が書写したとされる『維摩経』断簡が中国にあり、末尾に九州年号「定居元年」が記されていることが報告されました。これにより、九州王朝の「聖徳太子」という視点が明確となり、研究が促されました。

8.久留米大学公開講座で「九州王朝論」講義
九月に開催された久留米大学公開講座で「筑後の九州王朝」というテーマでわたしと正木裕さんが講義を行いました。古田先生以外の研究者が先生の後を受け
継ぎ、大学の公開講座で古田説・九州王朝論が講義できる時代になったのです。10年前には考えられなかった快挙です。

 この他にも、ミネルヴァ書房からは古田先生の著作が続々と復刻されており、全国の書店に並ぶようになりつつあります。来年も古田史学や「古田史学の会」にとって飛躍の年となるでしょう。楽しみです。


第503話 2012/12/09

拡大する前期難波宮祉

 先月、難波宮朝堂院の西方に当たる国立病院機構大阪医療センター敷地西南部より、前期難波宮期の遺構(塀跡、建物跡)が出土したことが新聞などで報道されました。この発見により、前期難波宮の規模が従来の想定規模よりも西へ100mほど拡大すると指摘されていました。
 12月1日には現地説明会が開催されましたが、当日は残念ながら定期健康診断の予約日と重なっていたため、説明会に行くことができませんでした。その事情を知った西井健一郎さん(古田史学の会々員・大阪市在住)が、わざわざ現地説明会資料を入手され、送っていただきました。大変、有り難いことです。おかげで、今回の発掘調査の概況を知ることができました。その資料の簡単な説明と、それが何を意味するのかについて考察してみました。
 説明資料によると、今回の遺構発見地は谷町筋(南北の通りで上町台地の西側の谷筋に相当)の東側に位置し、このことから前期難波宮とそれに隣接する役所群が上町台地北端の広範囲に広がっていたことが推測されます。すなわち、前期難波宮の内裏と朝堂院、内裏西方官衙、東方官衙、そして今回発見された「西方 官衙」が上町台地上に広がっていたのです。
 おそらく上町台地からはこれからも官衙群の発掘発見が続くことでしょう。既に発見されたこれら遺構群だけでも、前期難波宮は七世紀中頃における列島内最 大規模の、しかも類例の無い卓越した行政都市といえる景観を有しているからです。今回の発見により、こうした官衙群を周囲に有する大規模な前期難波宮は、列島を代表する王朝の宮都であることが、ますます確かなものになったのではないでしょうか。
 更に、今回の発掘成果で注目されるのが、谷を埋め立てた厚い整地層から、七世紀中葉以前の多数の土器とともに、人形や斎串、鏃形・琴柱形などの木製祭祀具が出土したことです。
 すでに内裏西方官衙などから木簡をはじめ多数の木製品が出土しており、前期難波宮以前から当地は「木製品祭祀」「木簡行政」が実施されていたことがうかがわれていたのですが、七世紀前半にかかるこれら木簡(戊申年木簡など)・木製品(水利施設・他)の出土は、全国的にも珍しい状況です。
 また、上町台地やその周辺地域からは「四天王寺創建瓦」と同類のものが数カ所から出土しており、仏教寺院先進地域の様相も呈しています。これら考古学的史料事実を見ても、上町台地には仏教を崇敬した列島を代表する中心権力者が七世紀初頭から存在していたと考えざるを得ないのではないでしょうか。


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。


第501話 2012/12/06

『風土記』の中の短里

 昨日は曇天と雨の中、富山県魚津市に行ってきました。今日は大阪に来ています。午前中はお得意さまと新規開発案件や輸出等の商談、午後は学会(繊維応用技術研究会)に出席しています。
 この繊維応用技術研究会は「繊維」の学会なのですが、天然繊維・合成繊維のほか、毛髪・ナノファイバー・木材繊維・染色・染料・酵素・化粧品・機能性色 素など幅広い分野に関する研究発表や講演があり、異業種交流の場としても人気の高い学会です。わたしはこの学会の理事として、運営のお手伝いをさせていた だいています。

 さて、日本列島内での短里使用の時期についての正木裕さんとの意見交換ですが、最終的には七世紀末まで九州王朝では公的に短里が使用され、大和朝廷の時代となった八世紀でも短里使用の影響が残存した地域があったとする見解で一致をみました。
 具体的には、八世紀に成立した『風土記』の中に短里と考えざるを得ない記事があることが根拠です。古田先生の名著『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)に詳述されていますが、一つだけ紹介しますと、『肥前國風土記』に次の記事が見えます。

 「肥前国風土記に云う。松浦の県。県の東、六里。ヒレフリの岑有り。」(岩波古典文学大系『風土記』による)

 松浦の県(あがた)の東「六里」のところにヒレフリの岑があるとされているのですが、底本には「三十里」とされているの を、岩波本の編者は「六里」に原文改訂しているのです。『風土記』成立時の八世紀では1里約535mですので、これではヒレフリの岑までの実測地とはあわ ないので、底本の「三十里」を「六里」に原文改訂したのです。
 この『風土記』は行政単位が「郡(こおり)」ではなく、九州王朝の行政単位「県(あがた)」であることから、古田先生は「県(あがた)風土記」と命名さ れ、原本は九州王朝で成立したものとされました。すなわち、九州王朝では短里で『筑紫風土記』を編纂したと考えられるのです。その九州王朝『筑紫風土記』 に基づいて、大和朝廷の時代となった八世紀においても「短里」表記が転用されたのです。
 こうした史料根拠に基づき、古田先生は日本列島における短里使用の史的痕跡が「二~三世紀頃より八世紀初に及んでいる。」(『よみがえる卑弥呼』194頁)とされたのでした。(つづく)

(補記)
 『日本書紀』天武十年八月条に見える「多禰嶋に遣(まだ)したる使人等、多禰國の図を貢れり。其の國の、京を去ること、五千余里。筑紫の南の海中に居り。」の記事の「五千余里」を短里表記とする見解について、第500話で 「どなたが最初に発表されたのかは失念しました」と記したところ、正木裕さんから、中村幸雄さん(故人・「古田史学の会」元全国世話人)が発表された説で あることを教えていただきました。出典は「大和朝廷の成立と薩摩及び薩南諸島の帰属」(『南九州史談』五号、1989年)で、当ホームページ中の「中村幸雄論集」に収録されています。是非ご覧ください。