『万葉集』の中の短里
古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。
「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)
「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。