難波宮中心軸のずれ
大阪歴博の学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんとの問答は多岐にわたりました。李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論稿も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約7分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第13』2005年)。極めて微妙なぶれですが、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それ に対する李さんの解説が見事でしたので、ご紹介します。
わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(686年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は686年に焼失した前期 難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・726)まで残っていたことを意味します。
こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。二人の問答はさらに続きました。(つづく)