2013年03月15日一覧

第539話 2013/03/15

白雉改元の宮殿(5)

 九州王朝の副都前期難波宮が、当時なんと呼ばれていたのかという研究テーマがありますが、わたしは第163話で「難波宮」と呼ばれていたとする仮説を発表しました。その根拠は、『続日本紀』では同じ場所に造営された聖武天皇の後期難波宮のことを一貫して「難波宮」と記していることでした。
 通説では前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とされています。前期難波宮は上町台地上の法円坂にあり、「難波」ではありますが、「長柄」や「豊碕」は もっと北方の淀川沿い(大阪市北区豊崎)に位置しており、前期難波宮を「長柄豊碕」と呼ぶには相当無理があるのです。従って、孝徳の難波長柄豊碕宮と九州 王朝の前期難波宮は別物であり、前期難波宮は『続日本紀』にあるとおり「難波宮」と呼ぶべきなのです。
 他方、正木裕さんからは前期難波宮は「味経宮(あじふのみや)」と呼ばれていたのではないかとする説が発表されています。その根拠は『日本書紀』孝徳紀白雉二年(651)十二月条の次の記事です。

  「味経宮に二千百余の僧尼を請(ま)せて、一切経を読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の経を読ましむ。」

 二千七百余人の僧尼が一堂に集まって読経できるような遺構やスペースは上町台地には前期難波宮しかないというのが、正木さんの主張です。説得力のあるご指摘なので、わたしも前期難波宮「味経宮」説に一定の賛意を持っています。わたしは「味経宮」説の証拠の一つとして、孝徳期白雉元年(650)正月条に見える次の記事にも注目しています。

  「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸(いでま)して、賀正礼を観(みそなは)す。」

 孝徳期白雉元年は650年なので、まだ前期難波宮は完成していません。ところがその直後の二月条の白雉改元記事が九州年号の白雉元年(652)二月条か らの「切り貼り」であったことが判明していますので、この白雉元年正月条も九州年号の白雉元年(652)正月条からの「切り貼り」の疑いがあるのです。
もしそうであれば、賀正礼を行うような宮殿ですから、この味経宮は前期難波宮のことと考えられるのです。ちなみに、二月条の白雉改元の儀式記事にも「元会の儀の如し」と記されていますから、賀正礼も改元儀式も同じ宮殿で行ったと思われ、賀正礼は味経宮で行ったと記されていますから、改元儀式も味経宮で行われたという理屈が成り立つのです。有力仮説として、引き続き検討したいと思います。(つづく)