豊崎神社境内出土の土器
『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測している のですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問 的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎 神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、 地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれてい るものもあります。
大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2~4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも 古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地 点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。