2014年02月28日一覧

第668話 2014/02/28

直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説

 大阪市中央区法円坂から出土した宮殿遺構「前期難波宮」を九州王朝の副都とする私に対して、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人)からは、 副都ではなく首都であると度々厳しいご批判をいただいています。西村さんの批判の根拠は、そこに天子がいて白雉改元の儀式をしているのだから、首都とみなすべきだというものです。正木裕さん(「古田史学の会」全国世話人)も一時は首都機能を持っていたという立場の説を発表されています。それは『日本書紀』で 「凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。」というのは、明確に「副都詔」と言えるからです。
 近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、 一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八 堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑 を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう から、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があるこ とが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕) という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」 直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』(112ページ。吉川弘文館、1994年)

 この直木さんの文章は近畿天皇家一元史観の限界とともに重要な示唆を含んでいます。十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このことなどを理由に直木さんは前期難波宮を天武朝ではなく孝徳朝の首都とされているのですが、この問題を九州王朝説の視点から見れば、西村秀己さんや正木裕さんが主張されるように、前期難波宮は九州王朝の首都とする見解も有力と言わざるを得ません。
 近畿天皇家一元史観において、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な明日香の宮殿から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の宮殿を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式ではない明日香の宮殿に戻るという変遷が理解不能・説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠 が皆無(子代離宮・小郡宮は発見されていない。この点、別に論じます)であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。こ の点こそ、一元史観では説明困難な前期難波宮の「謎」なのです。(つづく)