前期難波宮の「シュリーマンの法則」
古田先生の「学問の方法」で最も有名なものの一つに「シュリーマンの法則」と いうものがあります。古田学派の研究者や読者であればよくご存じのことと思います。文字史料や伝承などの記録と考古学的事実が一致する場合、それは歴史的事実である可能性が高いと判断するというものです。ギリシア神話の「トロイ木馬」伝承を歴史事実の反映と考えたシュリーマンがヒッサリクの丘からトロイ遺跡を発見し、その神話伝承が歴史事実であったことを証明したことに由来する 「学問の方法」です。具体的には『真実の東北王朝』(ミネルヴァ書房。20132年3月刊行、古代史コレクション10)の「第五章 東日流外三郡誌との出会い」で次のように古田先生は記されています。
「記・紀の表記の厳密な理解と考古学的出土分布とは一致する。これを『シュリーマンの法則』と呼ぶ。」(同書、152頁)
「人々は、従来の慣例やゆきがかり上、冷淡や無視や反発をくりかえしつつ、結局、「シュリーマンの法則」をうけ入れさるをえなくなるであろう。 ーー『神話・伝承と考古学的出土分布との一致』がこれである。」(同書、153頁)
今回は、この「シュリーマンの法則」で前期難波宮を考察してみることにします。まず考古学的事実の要点は次のようでしょう。
1.7世紀中頃の宮殿遺構であり、当時としては日本列島内最大規模である。
2.日本列島初の朝堂院様式の大規模宮殿遺構である。
3.朝堂の数は14堂で、後の藤原宮や平城宮の12堂よりも多い。
4.その周囲(東西)に大規模な官衙遺構を持つ。
5.火災による消失跡がある。
6.その遺構の上層には聖武天皇による「難波宮」(後期難波宮)遺構がある。
以上の考古学的事実に対応する文献史料には次のようなものがあります。
1.『日本書紀』孝徳紀白雉三年条(652年、九州年号では白雉元年に相当)に、「秋九月に、宮造ることすでに終わりぬ。その宮殿の状(かたち)ことごとくに論(い)うべからず。」(たとえようのない見事な宮殿が完成した)という記事があります。
2.『日本書紀』には上記の記事の他、天武11年九月条「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」のように「難波朝廷」という記事もあり、「朝堂院様式」の宮殿を表す「朝廷」という記載が対応しています。
『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)にも「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に「難波朝廷」が天下に評制を施行したことが記されています。この「朝廷」という表記も、7世紀中頃の朝堂院様式の前期難波宮遺構に対応した表現です。
3.上記の1と2が対応します。
4.7世紀中頃に全国に「評」が創設されたとする多くの記録(先の「天下立評」など)があり、それら評制を施行し、管理するのに必要な「朝廷」の官衙群に対応します。
5.『日本書紀』天武紀朱鳥元年条(684年)に難波の宮殿が火災で焼失したという記事に対応しています。
6.『続日本紀』の聖武紀に見える「難波宮」に対応します。
以上のようですが、こうして見ると『日本書紀』の記述と前期難波宮遺構がよく対応していることがわかります。すなわち、前期難波宮には「シュリーマンの法則」が成立しており、その結果、この大規模な宮殿を誰の宮殿とするのかが問われるのですが、九州王朝説論者の皆さん、どのようにこの問いに答えますか。わたしの「前期難波宮九州王朝副都」説以外に、九州王朝説を支持する誰もが納得できる仮説はあるでしょうか。ちなみに、近畿天皇家一元史観からの答えは簡単です。「『日本書紀』の記述通り、孝徳天皇が全国に評制を施行した宮殿である」と答えられるのです。古田学派の皆さん、 「シュリーマンの法則」が指し示す仮説を是非考えてみてください。