2014年10月一覧

第813話 2014/10/31

考古学と文献史学からの太宰府編年(1)

 「洛中洛外日記」812話で山崎信二さんの「変説」の背景にせまりましたが、 その最後に「考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されている」と記しました。その例について紹介したいと思います。
 本年3月に福岡市で開催された講演会『筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」』(「洛中洛外日記」671話で紹介)で講演された赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)による次の論文に重要な指摘や出土事実がいくつも記されています。

 赤司義彦「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)

 同論文については「一元史観からの太宰府王都説 -井上信正説と赤司義彦説の運命-」『古田史学会報』 No.121(2014年4月)でも紹介しましたが、太宰府条坊都市を斉明天皇の「都(朝倉橘廣庭宮)」(「遷都」「遷居」と表現)とする新説です。わたしが特に注目したのが大野城と大宰府政庁 I 期の編年についての記載です。

 「(大宰府政庁 I -1期遺構)出土土器は6世紀後半の返りのある須恵器蓋が1点出土している。」(81頁)
 「(政庁 I 期の遺構群)これらの柵や掘立柱建物は周辺を含めて整地が行われた後に造営されている。柵の柱堀形や整地層には6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる。 これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」(83頁)

 大宰府政庁遺構は3層からなり、最も古い I 期はさらに3時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁 I -1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、 I 期遺構は6世紀後半以後に造営されたことがわかります。更にその整地層から出土した土器が「6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる」という事実は、 I 期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。「これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」というのは、遺構をより新しく編年したいための 「解釈」であり、出土事実から導き出される真っ当な理解は、整地層に6世紀後半から末の土器が多く含まれるのであれば、その整地は7世紀初頭のことであるとまずは理解すべきではないでしょうか。
 こうした赤司さんが紹介された大宰府政庁 I 期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、太宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が先の政庁 I 期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。
 そして、井上信正さんの調査研究によれば、政庁 I 期と太宰府条坊造営が同時期と見られているのです。そうすると、考古学出土事実と九州年号という文字史料の双方が、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭とする理解で一致し、「シュリーマンの法則」すなわち、考古学的事実と文字史料や伝承が一致すれば、より歴史事実と考えられることになるのです。
 このように考古学出土事実を大和朝廷一元史観(『日本書紀』の記述を基本的に正しいとする歴史認識)による「解釈」で強引に「編年」するのではなく、 真っ当な理解で編年した結果が、九州王朝説に立つ文献史学の論証(倭京元年・618)と一致したのですから、まずは九州王朝の都である太宰府条坊都市の造営は7世紀初頭としてよいと思います。正確に言うならば、7世紀初頭から条坊都市太宰府は造営されたということでしょう。あれだけの大規模な条坊ですから、造営開始から完成までは幅を持って考えたいと思います。
 それでは次に大宰府政庁II期の宮殿の造営はいつ頃でしょうか。この問題を解決するヒントも赤司さんの論文にありました。(つづく)


第812話 2014/10/29

山崎信二さんの「変説」(2)

 このところ山崎信二さんの古代瓦に関する論文などを読んでいるのですが、さすがに瓦の専門家らしく、多くの論文を発表されています。中でも老司式瓦(筑前)と藤原宮式瓦(大和)の作製技法の共通性や変化(板作りから紐作りへ)に着目され、両者の「有機的関連」や「突然の一斉変化」を指摘されたことはプロの考古学者として優れた業績だと思いました。
 その山崎さんの優れた着目点であった老司式と藤原宮式の作製技法の変化の方向が、1995年では「筑前→大和」だったのが、2011年では「大和→筑前」へと、そして先後関係も「老司式が若干はやい」から「ほとんど同時期」へと微妙に「変説」していることを、わたしは指摘したのですが、その間に何があったのでしょうか。その「変説」の一つの背景となったのが学界内の趨勢ではなかったかと推測しています。当問題に関する学界の状況を知る上で参考になっ たのが、岩永省三さんの次の論文でした(インターネットで拝見できます)。

 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」
『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 この論文には山崎説を含めおそらく学界をリードする瓦の研究者の諸説が紹介されており、学界内の動向や趨勢を知ることが できます。わたしの見るところ、当初は老司1式(観世音寺創建瓦)が藤原宮式より先行するとされていた状況から、近年の研究では岩永さんを含め、老司1式 をより新しく編年しようとする論説が多数を占めてきているようです。こうした学界内の趨勢に山崎さんが影響を受けられたのかもしれません。
 しかし、より本質的な背景として、わたしは太宰府現地の考古学者、井上信正さんの画期的で実証的な新説が学界に激震をもたらしたのではないかと考えてい ます。「洛中洛外日記」でも何度も紹介してきましたが、井上さんは精緻な実測調査により、大宰府政庁2期・観世音寺の主軸と、太宰府条坊の中心軸がずれており、大宰府政庁2期・観世音寺創建よりも条坊都市の方が先に成立したことを明らかにされたのです。おそらくその時間差は数十年以上と思われます。数年の差なら、わざわざ条坊の主軸とずらして政庁や観世音寺を造営する必然性も必要もないからです。この画期的な井上説が発表され始めたのが、ちょうど1995 年から2011年の間なのです。管見では次の井上論文があります。

2001年「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』
2008年「大宰府条坊について」『都府楼』40号
2009年「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588

 この太宰府条坊が政庁・観世音寺よりも古いという新説は大和朝廷一元史観に激震をもたらしたはずです。それは次の理由からです。

(1)従来の瓦の編年では、観世音寺創建瓦(老司1式)が藤原宮創建瓦よりも古いとされていた。
(2)その観世音寺創建よりも太宰府条坊造営が古いことが井上さんの研究により明らかとなった。
(3)そうなると、従来わが国最初の条坊都市とされてきた「藤原京」よりも、太宰府が日本最古の条坊都市となってしまう。
(4)このことは大和朝廷一元史観ではうまく説明できず、古田武彦の九州王朝説にとって決定的に有利な考古学的根拠となる。

 以上の論理的帰結を理性的で勉強熱心な考古学者なら気づかないはずがありませんし、古田先生の九州王朝説を知らないはず もありません。九州王朝説であれば、九州王朝の首都である太宰府が国内最古の条坊都市であることは当然ですが、大和朝廷一元史観では、「地方都市」の太宰 府が大和の「都」よりもはやく「近代的都市設計」の条坊都市であることは、なんとも説明し難いことなのです。
 そこで考え出されたのが、老司1式瓦の編年を藤原宮式よりも新しくする、せめて同時期にするという「手法」です。しかし厳密に言えば、それでも「問題」 は解決しません。何故なら、観世音寺創建瓦(老司1式)を藤原宮と同時期かやや後に編年しても、その結果できることはせいぜい「藤原京」と太宰府条坊都市の造営を同時期とできる程度なのです。このように、観世音寺よりも太宰府条坊の方が古いという井上信正説は旧来の古代都市編年研究に瀕死の一撃を与えるほ どのインパクトを持っているのです。
 ちなみに、JR九州の駅で配られている観光案内パンフレット(九州歴史資料館監修)などには、太宰府や都府楼の案内文に「7世紀後半」と説明されており、大宰府造営を大宝律令制下の8世紀初頭とする通説とは異なっています。このように地元九州では井上説に立った解説や研究論文が公然と出されているので す。
 しかし、仮に「藤原京」と太宰府条坊都市の造営が同時期としても、やはり大和朝廷一元史観にとって「不都合な事実」であることにはかわりありません。というのも、大和の「都」と「地方都市太宰府」の条坊造営がなぜ同時期なのかという説明が困難なのです。さらに言えば『日本書紀』に「藤原京」と並び立つ太宰府条坊都市造営に関する記事がなぜないのかという説明も困難なのです。
 したがって、こうした無理な説明を強いる「変説」よりも、観世音寺創建(老司1式)の方が藤原宮造営よりも早く、瓦の編年も作製技法の移動も筑前が起点でより早い、すなわち九州王朝の影響が7世紀末に大和へ色濃く及ぶ「突然の一斉変化」こそ九州王朝から大和朝廷への王朝交代の反映とする、古田先生の九州王朝説こそ真実とするのが、学問的論理性というものなのです。
 実は先に紹介した岩永さんの論文にも、7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交代を「示唆」する指摘があります。それは次の部分です。

 「西海道と畿内との造瓦上の関わりは、7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じたもので、ひとたび技術移転が果たされ在地の造営組織が創設され稼動し始めると、観世音寺においても大宰府政庁においても中央からの関与はなくなる。」(p.31)
 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 西海道(九州王朝)と機内(大和)の造瓦上(作製技法・文様)の関わりが「7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じた」というややわかりにくい表現ですが、何度も徐々に筑紫と大和の関わりが生じたのではなく、7世紀末頃に一気に(単発的)起こったとされているのです。これこそ 701年に起こった王朝交代の考古学的痕跡であり、大和朝廷一元史観に立つ考古学者でも、このような痕跡を認めておられ、ややわかりにくい表現で筑紫と大和の7世紀末に発生した「事件」を説明されているのです。
 以上のように、考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されていることに、時代の変化が感じとれるのです。


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)


第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第809話 2014/10/25

湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の 推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。

 告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第807話 2014/10/21

正木さん、

「願轉」の出典発見

 先週開催された10月度関西例会では様々な仮説の提起や新発見・知見の報告があり、かなり充実したものでした。中でも正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)からの研究発表で、九州年号の「願轉」の出典が仏教教典にあったとの報告には驚きました。
 九州年号「願轉」(601~604年)は『隋書』に記されている九州王朝の輝ける天子・阿毎多利思北孤(あめ・たりしほこ)在位期間中の年号の一つで、 「願」や「轉(転)」という字が仏教的なものという感触は以前からあったのですが、その背景や出典は不明でした。たとえば「如来の本願」「本願寺」(浄土真宗)の「願」は有名ですし、「輪廻転生」や「転重軽受」(重い罪業を信仰により転じて軽く受ける。「日蓮遺文」)の「転」というように仏教用語によく見 られます。ところが、正木さんは「願轉」そのものを経典から見いだされたのです。たとえば次の通りです。

『佛説普曜経』308年漢訳
 「願轉法輪悉教衆生」
『正法華経・往古品第七』竺法護286年訳
 「願轉法輪演大聖典」「勸發世尊願轉法輪」
『十誦律・七法中受具足戒法第一』鳩摩羅什409年漢訳
 「功徳之寶海是願轉輪王」

 正木さんの解説では「轉法輪」とは教義(法輪)を他人に伝えること(転)を言い、釈迦が鹿野苑で最初に教義を説いた出来事を「初転法輪」と言うとのこと。従って、「願轉法輪」とは仏法流布を願う、あるいは「説法により○○を願う」という意味になるそうです。
 「転輪王」とは「古代インド思想における理想的な王を指す概念」とのことで、「願轉輪王」とは「転輪王の願い」ということで、「正義と法によって世を治め一切を守護する願い」とされています。
 いずれも仏教に帰依した天子(菩薩天子『隋書』)にふさわしい年号として「願轉」が用いられたと、正木さんは指摘されたのです。見事な仮説だと思います。九州年号研究により、九州王朝の歴史や思想性が復元されることになり、今後の研究動向に目が離せません。
 正木さんのこの研究は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』に掲載されることになると思います。楽しみが増えました。


第806話 2014/10/19

細石神社にあった金印

 このたびミネルヴァ書房から発刊された『古田武彦が語る多元史観』に志賀島の金印「漢委奴国王」について貴重な報告が記されています。江戸時代に志賀島から出土したとされている金印が、実は糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されているのです。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となったようです。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのこと。
 もともと、志賀島からの出土とする「文書」にも不審点が指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。しかし、今回の細石神社旧蔵という複数の口伝の発見は貴重で、九州王朝研究にとっても様々な可能性を感じさせます。
 たとえば、皇室御物の『法華義疏』に記された「大委国上宮王」という自署名中の国名「大委国」にニンベンがない「委」が使われていることに対して、古田先生と意見交換をしたことがあります。わたしは志賀島の金印の「委奴国」の「委」を上宮王(九州王朝の天子・多利思北孤か)は知っていた(見ていた)ので はないかと述べたところ、古田先生は「金印で押印された文書か何かが九州王朝内に残っていて、それを上宮王が見たのではないか」との見解を示されました。
 細石神社に金印が旧蔵されていたとなると、歴代の九州王朝の王や天子は金印のことを知悉していたという可能性もありそうです。もし九州王朝内で金印が伝えられたとすると、なぜ細石神社に旧蔵されたのかという問題や、「漢委奴国王」の金印以外の卑弥呼や壹与がもらった金印もどこかに旧蔵伝来されていた(いる)可能性も検討する必要を感じます。古田先生は糸島の王墓から出土した金印が細石神社に奉納されたのではないかとの見解を『古田武彦が語る多元史観』に記されています。この可能性も大きそうです。
 いずれにしても、今まで「志賀島の金印」と表現されてきましたが、今後はより学問的な表現として「漢委奴国王」金印(伝・細石神社旧蔵)などが望ましいのではないでしょうか。


第805話 2014/10/18

九州年号

「願轉」「光元」の意義

 本日の関西例会では9月に続いて服部さんから古代中国の二倍年暦について、論語は一倍年暦でも理解可能との批判がなされました。すなわち、わたしが「洛中洛外日記788話『論語』の二倍年暦」でも紹介した事例について、「この論語 解釈を二倍年暦の根拠とするには、仮説としては成立しても証明にはならない」と反論されました。この反論自体はもっともなものですので、今後も論争を続け ることになりました。四天王寺の移設(前期難波宮造営に伴い、玉造から荒墓への移設)についての作業仮説も興味深く、今後の研究の進展が期待されます。
 萩野さんからは出雲神話に関する現地の神社伝承などを丹念に集められ紹介されました。『出雲風土記』にスサノオのオロチ退治が記されていないことについて、大和朝廷にはばかって意図的に収録しなかったのではとされました。
 正木さんからは九州年号「願轉」「光元」などについての新説が発表されました。「願轉」は十七条憲法制定、「光元」は全身を金箔で覆った法隆寺の「夢殿救世観音建立」に関連した年号とされました。九州王朝の天子・多利思北孤の時代の九州年号「端政・告貴・願轉・光元」の研究(仮説提起)により、九州王朝 史研究が着実に進展しています。
 出野さんからは『説文解字』と白川漢字学についての解説がなされました。その中で紹介された『漢書藝文志』に見える「古(いにしえ)は八歳にして小学に 入る」に興味を持ちました。これが二倍年暦では論語の「十有五にして学を志す」に対応するのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 水野代表からは東海道新幹線開業50周年にあたり、開発時の思い出が語られました。開業二年前には試作車両(2両編成と4両編成)が完成し、それぞれ外観(六角形の窓など)が異なっていたとのことです。水野さんは営業初日に乗車され、そのときの切符は記念にもらえたので保存しているとのこと。
 このように関西例会はますます充実しています。会員の皆さんや一般の方のご参加をお待ちしています(参加費500円で、発表者の貴重な史料やレジュメがもらえ、それだけでもお得です)。10月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 論語の中の二倍年暦(八尾市・服部静尚)
2). 統計的手法は歴史学になじまないか?(八尾市・服部静尚)
3). 四天王寺の移設問題(八尾市・服部静尚)
4). 日本書紀神代上・八岐大蛇におけるスサノオとその他(東大阪市・萩野秀公)
5). 多利思北孤の仏法流布と九州年号「願転」「光元」(川西市・正木裕)
6). 『説文解字叙』を読み解く(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『古田武彦が語る多元史観』発刊、『百問百答+α』続刊予定、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミ ナー、松本深志校友会誌への投稿)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・小河原誠『反証主義』、三野正洋『戦艦大和最 後の戦い』を読む・東海道新幹線50周年・その他


第804話 2014/10/17

「反知性主義」に抗して

        なにをなすべきか

 佐藤優さんの『「知」の読書術』に指摘されているように、「反知性主義者」(大和朝廷一元史観の日本古代史学界)は「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもない」のであれば、わたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。

 佐藤さんは同書の中で、レーニンの『なにをなすべきか』(わたしも青年時代に読んだことがありますが、恥ずかしながら深く理解できませんでした)をはじめ、さまざまな著作を紹介し、最終的に「中間団体を再建することが重要だ」と指摘され、その中間団体とは「宗教団体や労働組合、業界団体、地域の寄り合いやサークルなどのこと」とされています。そして次のように締めくくられました。

 「フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755)は、三権分立を提唱した人物として知られていますが、彼はまた中間団体の重要性を指摘しています。すなわち、国家の専制化を防ぐには、貴族や教会といった中間団体が存在することが重要だということを言っているのです。
中間団体が壊れた国では、新自由主義によってアトム化した個人が国家に包摂されてしまいます。そうなると、国家の暴走に対する歯止めを失ってしまう。その手前で個人を包摂し、国家の暴走のストッパーともなる中間団体を再建することこそ、現代の最も重要な課題なのです。」(99頁)

 ここで佐藤さんが展開されている現代政治や国家問題とは次元やスケールは異なりますが、わたしたち「古田史学の会」もこうした中間団体の一つのように思われます。そうであれば、「市民の古代研究会」の分裂により組織的に縮小再出発した「古田史学の会」を少なくとも当時の規模程度(会員数約1000名)にまで「再建」することも重要課題として浮上してきそうです。そのための新たな施策も検討していますが、これからも全国の会員や 古田ファンの皆さんのお力添えが必要です。「古田史学の会」役員会などで検討を重ね、実現させたいと願っています。

(只今、東北出張からの帰りの新幹線の車中ですが、冠雪した美しい富士山が見え、心が癒されます。)


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第802話 2014/10/15

「川原寺」銘土器

の思想史的考察

 明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に記された銘文が話題になっています。新聞記事などによると次のような文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(7世紀後半頃か)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 川原寺の杯を盗るなという警告文ですから、当時も土器を盗む者がいたこと、そして盗む者も「漢文」と万葉仮名の警告文を理解できる程度の教養の持ち主であったことになります。
 恐らくこの「警告文」はこの土器1個だけのためではなく、川原寺に納品する多数の土器を代表して記されたのではないでしょうか。盗難抑止用に全ての土器にこうした不吉な「警告文」を記したら、それら全ての土器がお寺での実用に耐えられませんから、納品に当たり、一番見えやすい場所に梱包された「警告文付き土器」という性格のように思われます。従って、この1個はお寺での実用品とはならず、どういうわけか苑地で使用され、廃棄されたのではないかと推測しています。
 この土器の銘文は当時の土器職人や泥棒の識字力がうかがえるという意味において貴重ですが、わたしが最も注目したのが当時の飛鳥の人々の思想性についてでした。盗難抑止の「警告」として、飛鳥の権力者による「律令」などに基づく法的罰則ではなく、川原寺の宗教的権威や「わずらい」という精神的「脅迫」に頼っているという事実です。当時の飛鳥の人々にとっては「国家権力」よりも宗教的権威・畏れの方が影響力が強かったこと(効果的)を前提とする「警告文」ではないでしょうか。この点、日本思想史学の観点からも貴重な土器なのです。
 さて、そうなると「飛鳥京」苑地で川原寺から持ち出されたこの土器を使用した人は、川原寺の宗教的権威を畏れなかったのでしょうか。わたしの想像では、川原寺での使用をもともと前提としていない「警告」用のこの土器を川原寺からもらい受けたのではないでしょうか。そうでなければ、「警告文」付きの「わず らう」かもしれないこの土器を、他者の目をはばからずに使用することなどできなかったと思うのです。貴族の集う苑地に不吉な「警告文」付きの杯を使用するのですから、川原寺から盗んだのではなく、正式にもらい受けたと自他共に認められていたのではないかと思います。
 以上、「川原寺」銘土器について考察してきましたが、わたしはまだ実物を見ていませんから、この目で見たうえで改めて見解を述べたいと思います。現時点ではわたしの作業仮説(思いつき)にすぎないと、ご理解ください。実物を見ることができれば、更に多くの知見や理解が得られると思います。楽しみです。