細石神社にあった金印
このたびミネルヴァ書房から発刊された『古田武彦が語る多元史観』に志賀島の金印「漢委奴国王」について貴重な報告が記されています。江戸時代に志賀島から出土したとされている金印が、実は糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されているのです。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となったようです。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのこと。
もともと、志賀島からの出土とする「文書」にも不審点が指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。しかし、今回の細石神社旧蔵という複数の口伝の発見は貴重で、九州王朝研究にとっても様々な可能性を感じさせます。
たとえば、皇室御物の『法華義疏』に記された「大委国上宮王」という自署名中の国名「大委国」にニンベンがない「委」が使われていることに対して、古田先生と意見交換をしたことがあります。わたしは志賀島の金印の「委奴国」の「委」を上宮王(九州王朝の天子・多利思北孤か)は知っていた(見ていた)ので はないかと述べたところ、古田先生は「金印で押印された文書か何かが九州王朝内に残っていて、それを上宮王が見たのではないか」との見解を示されました。
細石神社に金印が旧蔵されていたとなると、歴代の九州王朝の王や天子は金印のことを知悉していたという可能性もありそうです。もし九州王朝内で金印が伝えられたとすると、なぜ細石神社に旧蔵されたのかという問題や、「漢委奴国王」の金印以外の卑弥呼や壹与がもらった金印もどこかに旧蔵伝来されていた(いる)可能性も検討する必要を感じます。古田先生は糸島の王墓から出土した金印が細石神社に奉納されたのではないかとの見解を『古田武彦が語る多元史観』に記されています。この可能性も大きそうです。
いずれにしても、今まで「志賀島の金印」と表現されてきましたが、今後はより学問的な表現として「漢委奴国王」金印(伝・細石神社旧蔵)などが望ましいのではないでしょうか。