『三国志』のフィロロギー
「上表文の長里」
魏・西晋朝で採用された短里により『三国志』を編纂するという困難な任務を陳寿が行うにあたり、おそらく大きな問題の一つが、直前の漢代まで使用されていた長里により記録された史料をそのまま引用するか、短里に換算するべきかを考え抜いたことと思います。『三国志』のように里単位変更の前後を含む時代の正史編纂にはこうした課題は避けられません(里単位以外にも暦法や度量衡でも同様の問題が発生します)。
前話までは短里で編纂された『三国志』に、長里が混在する可能性とその考えうるケースを論理の視点から解説しました。そこで、今回はそうした論理性に基づいて、『三国志』の長里記事の有無を具体例を挙げて解説します。
1月の関西例会で正木裕さんから「魏・西晋朝短里」は揺るがないとする発表があり、その中で『三国志』の中の長里ではないかと考えられる記事と、なぜ長里が混在したのかという考察が報告されました。そして次の記事について長里ではないかとされました。
「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)
この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
それに対して、わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないと批判したのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
明帝の暦法変更時期について、暦法や中国史に詳しい西村秀己さんに調査を依頼したのですが、わたしも少しだけ調べたところ、明帝は景初元年(237)に「景初暦」を制定したようですので、もしこのときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。もっとも、この「三百餘里」を短里とする理解もありますので、まだ断定すべきではないのかもしれません。
詳しくは西村さんの研究報告を待ちたいと思いますが、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。このように、短里で編纂された『三国志』に長里が混在する可能性について、具体的に個別に検証し、フィロロギーの方法によってその理由を明らかにしていくこと、これが学問なのです。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んじる」(村岡典嗣先生)のです。(つづく)