「年代歴」編纂過程の考察(2)
林さんのご指摘のように、『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年 戊寅」は「師安一年」のように「一年」とあるのが、九州年号部分の表記ルールという ことについては、わたしも賛成です。しかし、史料事実が物語っているように、「年代歴」成立過程で「兄弟元年」という表記が存在したことを想定せざるを得ないことは、935話で説明した通りです。そうすると、なぜ表記ルールとは異なった「兄弟元年」という表記が出現したのかが、次の問題となります。今回は この点について説明したいと思います。
実は『二中歴』の九州年号部分は、他の九州年号史料と比べ、かなり異質な史料状況なのです。通常、寺社縁起などのように、ある特定時点の事件を説明するために個別の九州年号が現れるのが一般的な九州年号史料の状況です。これに対して、九州年号が多数記された史料は「九州年号群」史料と呼ばれ、一般的な九州年号史料と区別しています。それら「九州年号群」史料としては、いわゆる「年代歴」と呼ばれるタイプのものが多数あります。すなわち、九州年号を使って代々の歴史を記録されたものです。「年表」と称してもよいかもしれません。
この「年表」にもいくつかのタイプがあるのですが、九州年号で年代を特定しながら、歴史事実を長文の記事として記録するタイプと、縦横のグリットの中に干支や年号を書き込み、 そのグリットの余白部分にメモ程度の単文記事を書き込むタイプが見られます。昨年、熊本県和水町で発見された「納音付き九州年号」史料は後者のグリットタイプの「九州年号群」史料です。
ところが『二中歴』「年代歴」はこれら「九州年号群」史料とは全く異なり、「年表」としての歴史事実の記録機能を本来の目的とはしていないのです。それは『二中歴』の史料性格が歴史事典のようなものであり、その中の「年代歴」はどのような年号がいつ頃存在したのか記した「年号一覧」という史料性格を有しており、年号の知識を必要とする当時のインテリ向けに作成された「年号辞典」だからです。
したがって、 「大寶」以降の近畿天皇家の年号部分は「年号・年数・元年干支」が中心で、それに天皇名等が付記されているといった様相を示しています。それに比べて、冒頭の九州年号部分にはその年号の時代に起こった記事が細注として付記されており、一見すると「年代歴」風の様式も兼ねています。実は、このことが「兄弟六年」という誤写の原因となっていると考えられるのです。(つづく)