2015年05月02日一覧

第942話 2015/05/02

筑紫舞「加賀の翁」考

 古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』 (ミネルヴァ書房)に、筑紫舞の伝承者、西山村光寿斉さんとの出会いと筑紫舞について紹介されています。古代九州王朝の宮廷舞楽である筑紫舞が今日まで伝 承されていたという驚愕すべき内容です。その筑紫舞を代表する舞とされる「翁」について詳しく紹介されているのですが、その内容についてずっと気になっていた問題がありました。
筑紫舞の「翁」には三人立・五人立・七人立・十三人立があり、十三人立は伝承されていません。三人立は都の翁・肥後の 翁・加賀の翁の三人で、古田先生はこの三人立が最も成立が古く、弥生時代の倭国の勢力範囲に対応しているとされました。ちなみに都の翁とは筑紫の翁のことですが、なぜ「越の国」を代表する地域が「加賀」なのかが今一つわかりませんでした。
ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から教えていただいた、次の考古学的事実を知り、古代における加賀の重要性を示しているのではないかと思いました。
庄内式土器研究会の米田敏幸さんらの研究によると、布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする定説は誤りで、胎土観察の 結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかったというのです。しかも北陸の土器 の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現するとのこと。日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきたので す。
この考古学的研究成果を知ったとき、わたしは筑紫舞の三人立に「加賀の翁」が登場することと関係があるのではないかと考えたのです。古田先 生の見解でもこの三人立は弥生時代にまで遡る淵源を持つとされており、この加賀南部で発生し各地に伝播した布留式土器の時代に近く、偶然とは思えない対応 なのです。絶対に正しいとまでは言いませんが、筑紫舞に「加賀の翁」が登場する理由を説明できる有力説であり、少なくともわたしの疑問に応えてくれる考古学的事実です。
なお、6月21日(日)午後1時からの「古田史学の会」記念講演会で米田敏幸さんが講演されます。とても楽しみです。(会場 i-siteなんば)


第941話 2015/05/02

続・九州王朝滅亡の一因を考える

 九州王朝から大和朝廷への権力交替にあたって、九州王朝の首都太宰府は「無血開城」されたかのように、宮殿は破壊されず、巨大な防衛施設の水城も 健在のままでした。すなわち、九州王朝はその滅亡期において、「首都決戦」を行った痕跡が文献史料的にも考古学的にも見あたらないのです。この事実は、九州王朝の滅亡がどのようなものであったのかを考える上で重要なヒントになるように思われます。
 九州王朝が白村江の敗戦以後、実質的にも名聞的に も権威と実力を急速に失っていったと思われますが、7世紀末頃から8世紀初頭にかけて、列島内で「一大決戦」ともいうべき大きな戦争が2度行われました。
 一つは有名な「壬申の大乱」(672年)、もう一つは『続日本紀』にその痕跡が残されている「隼人の大乱」(712年、九州年号最終年の大長9年)です
(「続・最後の九州年号」『「九州年号」の研究』所収をご参照下さい)。

 わたしはこの二つの「一大決戦」こそ、九州王朝滅亡期の姿を考える上で、重要な事件だと推察しています。 「壬申の大乱」は近江朝廷の大友皇子と大海皇子(天武天皇)の争いとして『日本書紀』には特筆大書されていますが、わたしは「九州王朝の近江遷都」が白鳳元年(661年、『海東諸国記』の遷都記事による)になされたと考えていますから、大友皇子は父の天智天皇が定めた「不改常典」により九州王朝の権威を継承した、あるいは九州王朝の対唐徹底抗戦派を支持した人物ではなかったかと推察しています。とすれば、「壬申の大乱」は近江京などを中心とした九州王朝の 「首都決戦」だったと言えるかもしれません。
 もう一つは南九州での「隼人の大乱」で、これは最後の九州年号である「大長」の最末年「大長九年」 (712年)に起こっていますから、九州王朝の最終年の「大乱」であり、これも九州王朝の対大和朝廷徹底抗戦派による「一大決戦」と考えざるを得ません。
 この二つの「一大決戦」がともに九州王朝の首都太宰府から遠く離れた地で行われたことが、太宰府「無血開城」の遠因になったのではないでしょうか。
 さらにもう一つの理由、これは全くの想像ですが、九州王朝の天子は首都太宰府の有力氏族や人民からの信頼を決定的に失っていたのではなかったでしょうか。 白村江戦に先立ち、唐の脅威から逃げるように、難波副都や近江京を造営し、天子や百官百僚たちは首都の人民を見捨てて「遷都」したとき、残された太宰府の人々からの信頼を決定的に失ったのではないでしょうか。ですから「首都決戦」などできる条件を九州王朝は既に失っていたものと思われるのです。
 以上、今回の帰省で大野城(大城山)の遠景を見ながら考えたことでした。