2015年05月04日一覧

第945話 2015/05/04

「秦王国」の多利思北孤

今回も「肥後の翁」考の続きで、いよいよ核心部分の考察に入ります。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」に記された国名で、その所在地について古田学派内でも意見が分かれており、具体的な有力説が出されていない「秦王国」についての考察です。
秦王国は竹斯国の東と記されていますから、単純に考えれば福岡県の東部、あるいは更に東の瀬戸内海沿岸にあったとする理解も不当ではありません。しかし、 その後に「更に十余国進んで海岸に至った」とありますから、秦王国は内陸部にあったと考えなければなりません。そうすると豊前や瀬戸内海沿岸に秦王国が あったとする説は成立しません。従って、筑豊地方(飯塚市・田川市など)であればこの点はクリアできますが、ただ筑豊からは阿蘇山の噴火は見えません。
このように、秦王国を竹斯国(博多湾岸・太宰府付近)の真東とする理解よりも、古代官道の西海道を東南に進み、杷木付近で筑後川を渡河した先にある筑後地 方説が相対的に有力な説と考えられるのです。「九州王朝の筑後遷宮」という説をわたしは発表していますが、今の久留米市・うきは市に九州王朝が遷宮してい た、「倭の五王」時代から条坊都市太宰府造営(倭京元年、618年)までの期間に、『隋書』に記された多利思北孤の時代(600年頃)は入っていますか ら、そのとき都は筑後にあり、秦王国と称されていたことになるのです。
そして、真の問題はここから発生します。古田先生はこの「秦王」につい て、『隋書』には「隋の天子の弟」のこととして表れていると紹介されています。もしこの用例が倭国でも同様(模倣)であれば、多利思北孤は「日出ずる処の 天子」であると同時に「天子の弟」でもあることになってしまいます。この矛盾した「天子」概念が九州王朝ではあり得ることが、『隋書』「イ妥(たい)国 伝」に次のように記されています。

「(開皇20年、600年)使者言う。イ妥王天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聴くに跏趺して坐す。日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」

このように九州王朝では国王兄弟で夜と昼に分けて統治していたとあるのです。従って、「日出ずる」天子・多利思北孤は昼間の政治を担当していた「弟」と考 えられ、このことは既に古田先生も言及されておられたことです。従って、天子であり、弟でもある多利思北孤が秦王国(天子の弟の国)に居たとする理解は決 して荒唐無稽なものではないのです。なお、古田先生によれば、九州年号の「兄弟」(558年)も、こうした倭国における兄弟統治を背景に成立した年号とさ れています。(つづく)


第944話 2015/05/04

隋使行程記事と西海道

前話に続いて「肥後の翁」問題を考えます。隋使はどのような行程で「肥後の翁」に接見し、阿蘇山の噴火を見たのでしょうか。この問題を考えるために『隋書』「イ妥(タイ)国伝」を見直しました。そこには、隋使の倭国への行程記事として次のように記されています。

1.百済を渡り竹島に至り、南にタンラ国を望み、
2.都斯麻国(対馬)を経、はるかに大海の中に在り。
3.又東して一支国(壱岐)に至る。
4.又竹斯国(筑紫)に至る。
5.又東して秦王国に至る。
6.又十余国を経て海岸に達す。

()内はわたしが付したものですが、朝鮮半島から対馬・壱岐を経て、筑紫(博多湾岸から太宰府付近)までははっきりしているのですが、秦王国や「十余国を経て海岸に達す」については論者によって見解が分かれますし、この記事からは断定しにくいところです。
この行程記事では方角を「東」と記されていますが、実際には「東南」方向ですから、秦王国の位置は、二日市市・小郡市あたりから朝倉街道(西海道)を東南 方向に向かい、杷木付近で筑後川を渡河し、その先の筑後地方(うきは市・久留米市)ではないかと、わたしは考えています。もちろん、太宰府条坊都市の成立 (倭京元年、618年)以前ですから、九州王朝の都は筑後にあった時期です。
問題は「十余国を経て海岸に達す」です。方角が記されていませんから、この記事だけでは判断できませ。しかし、隋使が阿蘇山の噴火を見ていますから、肥後方面に向かったと考えるのが、史料事実にそった理解と思われます。
従来、わたしは「十余国を経て海岸に達す」を久留米市から柳川市・大牟田市方面に向かい、有明海に達したという意味に理解すべきと考えてきましたが、近 年、熊本県和水町とのご縁ができたこともあって、土地勘が少しずつですがついてきましたので、この行程も古代の官道「西海道」を隋使は進んだと考えたほう が良いと思うようになりました。それは次の理由からです。

(1)筑紫(福岡市)から小郡、そして東へ朝倉街道(西海道)を進み、筑後川を渡り、久留米に到着してたとすれば、これは古代西海道のコースである。
(2)十余国を経て海岸に到着していることから、久留米市から大牟田市までの間にしては国の数が多すぎるように思われる。
(3)これが内陸部を通る西海道に沿って十余国であれば、久留米市から肥後に向かい、菊池川下流か熊本市付近の海岸に達したとするほうが、国の数が妥当のように思われる。

以上のような理解から、わたしは筑後(秦王国か)に着いた隋使は古代官道の西海道を通って、鞠智城や江田舟山古墳方面に行ったのではないかと、今では考え ています。こうした理解から、この地域(菊池市・玉名郡・熊本市など)で隋使は「肥後の翁」と接見し、阿蘇山の噴火も見たのではないでしょうか。更にこの ルートを支持する『隋書』の記事として、「鵜飼」があります。筑後川や矢部川は鵜飼が盛んな所でした。(つづく)