2015年08月23日一覧

第1035話 2015/08/23

「難波宮」万葉歌の史料批判

 本日の夜、「古田史学の会」役員間でメールの応答があり、「難波宮」万葉歌の史料批判とでも言うべき、とても面白い問題へと発展してきましたので、転載し、ご紹介します。
 まず、水野顧問からの問いかけ(起承転結の起)に始まり、それに対する古賀の返答(承)、そして正木事務局長からのするどい仮説の提起(転)という内容です。こうした学問的応答が瞬時に交信されるのも「古田史学の会」ならではの特色です。今後、どのように展開(結)するのか、興味津々です。

(1)水野さんから古賀や役員への質問メール
 万葉集 03/0312 「昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり」作者:藤原宇合
 この作者は、聖武天皇期に、造(後期)難波宮長官になった。前期難波宮は副都で豪華な都会だったら、「昔は田舎と言われたが」なんて歌を詠むのかナ

(2)古賀から水野さんへの返信メール
水野様
 ご指摘の歌はわたしも注目してきたものです。
 考古学的事実としては前期難波宮の上にほぼ同規模の宮殿として後期難波宮があります。官衙群は前期が圧倒的に多く出土しています。ですから、この歌にあるように聖武天皇の後期難波宮が「今は都引き都びにけり」であれば、前期難波宮も同様かそれ以上に素晴らしい都・宮殿とみなすのが、考古学的出土事実に対する正当な理解です。
 他方「昔」は「田舎」としているのですから、その「昔」が何年前のことかという問題が生じます。前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失していますから、それ以後のことをさして「昔」としているのであれば、焼け野原ですから「田舎」という表現も妥当でしょう。あるいは前期難波宮造営の白雉元年(652)より以前であれば都ではないのですから、「田舎」という表現も妥当かもしれません。したがってこの歌の「昔」をいつ頃とするのかの検討が必要です。
 今のところ、それを特定する学問の方法がわかりませんので、わたしは判断を保留しています。藤原宇合や同時代の歌人たちが使用している「昔」の用例を全て抜き出して、具体的にその定義を明らかにできれば特定できるかもしれませんが。
 古賀達也

(3)正木さんから水野さんへのメール
水野様、
 これに類する歌が他にもあります。
 928番歌:冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
 おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の男は 廬りして 都成したり 旅にはあれども
 929番[并短歌]:荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ 

 これらは神亀2年(725)10月の笠朝臣金村の歌とありますが、「題詞を信じるなら」686年の前期難波宮焼失から40年後ですから、九州王朝滅亡とともに”遺棄”されていたととれます。
 ただ、題詞と内容が矛盾するときは内容を優先するというのが古田先生の考えですから、前期難波宮時の歌を作者と時期を変えて万葉に搭載している可能性も十分あります。
 そういう目で見ると、笠朝臣金村の歌は300番台、500番台、900番台、1400・1500番台に分かれ、そのうちの900番台「だけ」は柿本人麻呂の「吉野宮・滝・三船山」など九州吉野に関する歌と極めて類似するものや航海の歌ばかりです。
 また、九州から難波へと異なり、奈良から難波には「航海」不要ですし、歌調も金村とは異なっているように思えます。従って前期難波宮造営時の歌からの盗用の可能性が高いと思います。人麻呂の歌同様、本来九州や前期難波宮に関するものを、近畿天皇家の歌とするため後期難波宮に「仮託」して九州王朝を隠したのではないでしょうか。

(笠朝臣金村の900番台の歌すべて)
【吉野に関する歌】
 06/0907   瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
 06/0908   年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
 06/0909   山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも
 06/0910   神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
 06/0911   み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
 06/0912   泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
 06/0920   あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥しば鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆることなく 万代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祈る 畏くあれども
 06/0921  万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所
 06/0922   皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも

【航海に関する歌】
 06/0930   海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
 06/0935   名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ
 06/0936   玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
 06/0937   行き廻り見とも飽かめや名寸隅の舟瀬の浜にしきる白波

 どうでしょうか。
  正木拝


第1034話 2015/08/23

前期難波宮の方位精度

 古代寺院などの「7度西偏」磁北説に対して、吹田市の茂山憲史さん(古田史学の会・会員)から貴重なアドバイスのメールをいただきました。次の通りです。

  「それにしても、偏角1度というのは、時計文字盤の「1分」の6分の1という微妙な角度です。全国にそんなにたくさんの「7度西偏」の建造物があるとは考えにくいのではないでしょうか。6度や8度がもっとある気がします。それにもかかわらず、ある時期以降、「磁北」がプランの中心流行になったと言うことは確かだと思います。簡便だからです。それが九州王朝に始まるのか、近畿王朝以降に始まるのか、興味津々です。僕の推測としては、九州王朝に始まる気がしています。「指南魚」という文化の伝播速度と九州王朝の進取の気風を考慮したいのです。朝鮮半島への伝播も興味が湧きます。」

 茂山さんは現役時代は新聞社に勤めておられ、天文台への取材経験などから、磁北や歳差について多くの知見を持っておられます。昨日の関西例会でも、本件についていろいろと教えていただきました。
 そこで古代建築の方位精度について、どの程度のレベルだったのかについて調査してみました。以前、前期難波宮遺構について大阪歴博の李陽浩さんから教えていただいたことがあったので、李さんの論文を探したところ、『大阪遺産 難波宮』(大阪歴史博物館、平成26年)に収録された「前期・後期難波宮の『重なり』をめぐって」を見つけました。
 李さんは古代建築史の優れた研究者で、多くの貴重な研究成果を発表されています。同論文には前期難波宮の南北中軸線方位の精密な測定結果が掲載されており、その真北との差はなんと「0度40分2秒(東偏)」とのことで、かなり精密であり高度な測量技術がうかがわれます。後期難波宮も前期難波宮跡に基づいて造営されているのですが、その真北との差も「0度32分31秒(東偏)」であり、両者の差は「誤差に等しいとしても何ら問題がない数値といえよう。」と李さんは指摘されています。古代の測量技術もすごいですが、残された遺跡からここまで精密な中心軸方位を復元できる大阪歴博の考古学発掘技術と復元技術もたいしたものです。
 この前期難波宮は九州王朝の副都であるとわたしは考えていますから、7世紀中頃の九州王朝や前期難波宮を造営した工人たちが高度な測量技術を有していたことがわかります。おそらくこの精度は高度な天体観測技術が背景になって成立していたと思われますが、「磁北」を用いる場合は、方位磁石の精度も必要となりますから、はたして古代において、どのような方位磁石が日本列島に存在し、いつ頃から建築に使用されたのかが重要テーマとして残されています。歴史の真実への道は険しく、簡単にはその姿を見せてはくれません。引き続き、調査と勉強です。(つづく)