2015年09月一覧

第1065話 2015/09/30

長野県内の「高良社」の考察

 昨晩の村田正幸さんとの話題は長野県内に分布する「高良社」についてでした。村田さんの調査によれば、石碑を含めて県内に12の「高良社」を確認したとのこと。次の通りです。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明

 まだ調査途中とのことですが、分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目されます。「高良」信仰がどの方角から長野県に入ってきたのかを示唆する分布状況かもしれませんが、断定するためには隣接県の「高良」信仰の分布調査が必要です。
 この「高良」信仰は九州でも筑後地方に濃密分布しており、隣の筑前や肥後では激減しますから、極めて在地性の強い神様です。わたしの研究では「倭の五王」時代から6世紀末頃までの九州王朝の都は筑後(久留米市)にあり、その間の代々の倭王は「玉垂命」を襲名していたと思われます(拙論「九州王朝の筑後遷宮 -高良玉垂命考-」を御参照ください)。従って、その「高良玉垂命」の信仰が信州(長野県)に伝播した時代は、古代であればその頃が有力ではないかと考えています。もちろん、中近世において「高良神」信仰を持った有力者が信州に移動した、あるいは勧請したというケースも考えられますが、それであれば中近世史料にその痕跡が残っていてほしいところです。
 以上のように信州の「高良神」について考察を進めていますが、まだまだ結論を出すには至っていません。当地の伝承や史料の調査検討が必要です。他方、筑後地方に「高良玉垂命」が信州に行ったとするような伝承・史料の存在は知られていません。
 また、九州王朝と信州との関係をうかがわせるものには、『善光寺縁起』などに見られる九州年号の存在、天草に濃密分布する「十五所神社」が岡谷市にも多数見られるということがあり、信州の古代史を九州王朝説・多元史観で研究する必要があります。村田さんのご研究に期待したいと思います。


第1064話 2015/09/29

「古田史学の会・まつもと」の皆さんと懇談

 今日から北陸・信州・名古屋と出張です。富山からは北陸新幹線で長野に入り、仕事と行程の都合から松本市で宿泊です。ちょうどよい機会ですので、「古田史学の会・まつもと」の北村明也さん、鈴岡潤一さん(松本深志高校教諭)と夕食をご一緒し、その後、村田正幸さんと歓談しました。北村さんは松本深志高校での古田先生の教え子さんで、村田さんは「古田史学の会」全国世話人を引き受けていただいています。北村さん・鈴岡さんとは「古田史学の会」の展望について意見交換し、村田さんからは長野県に分布する「高良社」「高良明神」などの調査結果の説明があり、なぜ筑後地方神とされる「高良神」が信州に数多く祀られるのかについて論議しました。いずれも楽しく有意義な一夕となりました。
 お会いする約束をいただくため、事前に北村さんにお電話したのですが、突然のわたしからの電話に、「古田先生に何かあったのですか」と驚かれていました。ちょっと申しわけない気持ちと、古田先生を気遣い慕う教え子さんたちの思いが、60年以上たった今日でも続いていることに感動を覚えました。
 今日、初めて北陸新幹線に乗りましたが、内装もきれいですし、シートに着いている枕は上下に移動するという優れものでした。金沢駅から富山駅まで乗り、その後、黒部宇奈月温泉駅から長野駅まで利用しましたが、いずれの駅も積雪に耐えられるように、ホームの屋根を支える鉄骨は京都駅などには見られないような頑丈な作りでした。さすがは雪国の新幹線仕様です。聞けば、様々な降雪対策が施されているとのことですので、岐阜・米原間の降雪でよく止まる東海道新幹線も見習ってほしいものです。なお、「黒部宇奈月温泉駅」は新幹線の駅名としては最も長い名前とのことでした。
 松本には仕事ではなく、次回はプライベートな旅行で訪れたいと思いました。


第1063話 2015/09/26

「鬼前太后」「干食王后」の出典

 「古田史学の会」9月の関西例会では、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からも貴重な報告がありました。法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された上宮法皇(阿毎多利思北孤)の母親と奥さんの名称「鬼前太后」と「干食王后」の出典は仏典であったとする仮説です。
 正木さんの調査によると、「小地獄(無限地獄)」に落ちて受ける罰の一つに「鉄、野干、食処(てつやかんじきしょ)」というものがあり、これは仏像・僧侶などを焼いたり毀損した罪で、「身体から火が吹き出し、鉄の瓦が降り罪人を打ち、炎の牙の野干(ジャッカルとも。日本では狐に似た動物とされる)に食われる」という地獄。つまり「干食」は仏教上ではこうした罪を受ける意味を持っているとのこと。
 「鬼前」は前世で仏教を信じず侮った罪とされ、北魏の延興2年(472)に訳された『付法蔵因縁伝』に見える「斯鬼前世一是吾息一是兄婦(以下略)」を出典とされました。その意味は「鬼の前世は息子夫婦で、仏教を侮った罪で鬼に生まれ罪の報いを受けた」とのことで、ここに「鬼前」が見えます。
 結局、これらの語はいずれも仏教に背き罪を受け、無限地獄に落ち苦しむ様を示しています。多利思北孤の母、妻は、地獄の苦しみか(天然痘による病没か)らの釈迦の救済を求め、そこからの救済を行うために、「戒名」として授けられたと正木さんは考えられました。
 例会参加者からはそのような悪い戒名を天子の母や妻に付けるものだろうかという疑問も出されましたが、従来典拠不明とされていた「鬼前」「干食」の語を仏典から見いだされたことから、一つの仮説として研究に値するものと思います。「法興」「聖徳」に続いて「鬼前」「干食」も仏教に関わる語とされる正木さんの一連の研究は、九州王朝仏教史研究において貴重な成果ではないでしょうか。
 なお、この正木さんの研究は『古田史学会報』130号に掲載予定です。


第1062話 2015/09/25

加賀の「天皇」と「臣」

 「古田史学の会」9月の関西例会では重要なテーマの研究発表がいくつもありましたが、中でも今後の展開が期待される研究が冨川ケイ子さん(会員、相模原市)から報告されました(加賀と肥後の道君 越前の「天皇」と対高句麗外交)。それは6世紀(欽明期)の加賀に「天皇」と「臣」を称した有力者がいたというものです。
 『日本書紀』欽明31年(570年、九州年号の金光元年)3〜5月条に見える、高麗の使者が加賀に漂流し、当地の豪族である道君を天皇と思い、貢ぎ物を献上したという記事です。そのことをこれも当地の豪族の江淳臣裙代が京に行って訴え、其の結果、道君が天皇ではないことを高麗の使者は知り、貢ぎ物は取り返されたと記されています。
 冨川さんは、道君は高麗の使者が天皇と間違えるほどの有力者であることに着目され、当時の加賀(越の国)では道君が「天皇」を自称したのではないかとされました。また8世紀初頭において、道君首名(みちのきみ・おびとな)が筑後と肥後の国司を兼任していることから、筑紫舞の翁(三人立)の登場人物が都の翁と肥後の翁、加賀の翁であることと、何らかの関係があるのではないかとされました。
 肥後が鉄の産地で、加賀がグリーンタフ(緑色凝灰岩)の産地であることから、九州王朝の天子を中心としながらも、加賀にナンバーツーの「天皇」を名乗れるほどの有力者がいたかもしれないという仮説は大変興味深いものです。
 高麗(高句麗)の使者が倭国(九州王朝)の代表者が九州にいたのか、加賀にいたのかを知らなかったとは考えられません。もしかすると、九州ではなく最初から加賀の「天皇」に会うために高麗の使者は加賀に向かったのかもしれません。まだ当否の判断はできない新仮説ですが、これからどのような展開を見せるのかが楽しみな研究発表でした。


第1061話 2015/09/24

九州発か「○○丸」名字(3)

 「○○丸」名字の考察と調査を進めてきましたが、その中心地(淵源)が福岡県を筆頭とする九州地方であることは、まず間違いなさそうです。そうなると、やはり古代九州王朝との関係が気になるところです。そもそも「丸(まる)」とは何を意味するのでしょうか。古田先生が提唱された元素論でもちょっと説明できません。「ま」や「る」の元素論的定義(意味)から解明できればよいのですが、今のところよくわかりません。
 しかし、まったくヒントがないかと言えば、そうでもありません。たとえばお城の「本丸」や「二の丸」の「丸」や、日本の船の名前に多用される「丸」などと関係があるのではないかと睨んでいます。古代伝承でも朝倉の「木(こ)の丸殿」に天智天皇がいたとするものがあり、「天皇」の宮殿名にも「丸」が採用されていた痕跡かもしれません。
 こうしたことから推察すると、「丸」とは周囲とは隔絶された重要(神聖)な空間・領域を意味する用語と考えてもよいのではないでしょうか。そうすると「丸」の「ま」は地名接尾語の「ま」(一定領域)と同源のように思われます。
 ラグビーの五郎丸選手のおかげで、ここまで考察を進めることができましたが、まだ作業仮説(思いつき)の域を出ていませんので、これからも勉強したいと思います。


第1060話 2015/09/23

九州発か「○○丸」名字(2)

 名字や地名の由来をネット検索で調べてみますと、「○○丸」地名の説明として、「丸」とは新たな開墾地のことで、例えば田中さんが開墾すれば「田中丸」という地名が付けられ、その地に住んでいた人が「田中丸」を名字にしたとするものがありました。しかし、これはおかしな説明で、それでは新たな開墾地は九州や広島県に多く、その他の地方では開拓しなかったのかという疑問をうまく説明できません。さらに「五郎丸」の場合は「五郎」さんが開墾したことになり、これではどこ家の五郎さんかわかりません。やはり、この解説ではこれらの批判に耐えられず、学問的な仮説とは言い難いようです。ネットの匿名でのもっともらしい説明はあまり真に受けない方がよいと思います。
 それでは「五郎丸」の「五郎」は人名に基づいたものでしょうか。わたしはこのことにも疑問をいだいています。たとえば、わたしの名字の「古賀」は福岡県に圧倒的に濃密分布しているのですが、「名字由来net」で検索したところ「古賀丸」という名字は1件もヒットしないのです。「古賀」さんたちは新たに開墾しなかったのでしょうか。自らの名字に「丸」を付けるのがいやだったのでしょうか。ちなみに、「古賀」「○○古賀」という地名は福岡県内にけっこう存在します。
 このような疑問の連鎖が続くこともあり、「五郎丸」名字と関連した「○郎丸」名字を「名字由来net」で調べてみました。次の通りです。数値は概数のようですので、「傾向」としてご理解ください。

〔「○郎丸」名字 県別ランク人数〕(人)
名字  1位   2位   3位       全国計
太郎丸 福岡80    佐賀10  長崎10          130
次郎丸 福岡230  大分50  神奈川,東京30   440
一郎丸 福岡50                              50
二郎丸 福岡60   東京10                    70
三郎丸 広島50   福岡40  大分・長崎20    150
四郎丸 福岡70   広島50  東京30          180
五郎丸 福岡500  山口120  広島60         990
六郎丸 大分・広島10                        10
七郎丸 大分・福井10                        20
八郎丸 無し                                 0
九郎丸 熊本50   福岡30  埼玉・兵庫10     90
十郎丸 無し                                 0

 以上の結果から、やはり「○郎丸」名字は福岡県に多いことがわかり、中でも「五郎丸」さんが他と比べて断トツで多いことが注目されます。人名がその名字の由来であれば、長男や次男の「太郎丸」「次郎丸」の方が多いのが普通と思うのですが、五男の「五郎丸」が多いのでは辻褄があいません。やはり、これらの名字は単純な人名由来ではないと考えたほうがよいように思われますが、いかがでしょうか。
 余談ですが、「○郎丸」名字検索で、超有名な「○郎」さんとして、「金太郎丸」「桃太郎丸」を調べたところ0件でした。そんな名字の人がおられたら、テレビなどで取り上げられるはずですから、やはりおられないのでしょう。(つづく)


第1059話 2015/09/22

九州発か「○○丸」名字(1)

 ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦での劇的な逆転勝利で一躍有名になった五郎丸選手ですが、キックの時の印象的なルーチンと呼ばれる動作とともに、その珍しいお名前に、わたしの好奇心がフツフツと沸いてきました。というのも、「五郎丸」のように名字が「○○丸」という人が何故か九州に多いと感じていたので、もしやと思い、五郎丸さんのご出身地を調べてみると、やはり福岡市ということでした。わたしの母校(久留米高専)の後輩にも小金丸さんがいましたし、知人には田中丸さん市丸さんもおり、いずれも福岡県や佐賀県の出身です。また、筑後地方には田主丸という地名もあり、この「丸」地名や「丸」名字は古代九州王朝に淵源するのではないかと考えていたのです。
 そこで、インターネットの「名字由来net」というサイトを利用して、「丸」名字の分布を調べてみました。五郎丸さんをはじめ、著名人や知人の「丸」名字の県別分布ランキングは次のようでした。数字は概数であることから、あくまでも大まかな傾向と理解した方がよさそうですが、やはり推定通りの結果となりました。次の通りです。なお、これは漢字表記の分類で、複数の訓みがある場合はその合計です。

〔著名人・知人の県別「丸」名字人数〕(人)
名字  1位   2位  3位    全国計
五郎丸 福岡500  山口120 広島60     990
小金丸 福岡1400 長崎170 東京130   2200
薬師丸 福岡10  神奈川10        20
田中丸 佐賀130  福岡90   神奈川30   380
薬丸  福岡190  鹿児島120 宮崎70    740
金丸  宮崎5200 東京2400 福岡2300 25600
市丸  佐賀1200 福岡820  東京290   3800
力丸  福岡1200 福島550  神奈川190 2800
井丸  広島50   福岡40   大阪30     240
田丸  千葉1700 神奈川1400 広島1400 11700

 以上のように、田丸さんを除けばほぼ九州、特に福岡県に「丸」名字が集中していることがわかります。九州以外では何故か広島にも多く、これが何を意味するのか興味深いところです。田丸さんだけは傾向が異なり、関東に多く分布していますが、ここでも2位に広島県が食い込んでいることが注目されます。なお、「丸」一字の名字もあり、1位が千葉2400、2位東京830、3位神奈川470で、全国合計5300でした。千葉県に「丸」さん「田丸」さんが多いことが注目されます(千葉県南房総市に「丸」という地名もあるようです)。(つづく)


第1058話 2015/09/21

鞠智城7世紀中葉造営の理由

 鞠智城造営を白村江戦以後の665年としてきた従来説に対して、岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が大化改新後の7世紀中葉造営説を発表されました。わたしも鞠智城の従来編年が不適切であり、造営時期を少なくとも20〜30年遡らせるべきと指摘していました。ですから、岡田さんの新説には基本的に賛成なのですが、その造営理由を南九州の対隼人経営のためとされたことには賛成できません。
 岡田さんは7世紀中葉において、『日本書紀』などに対隼人経営に関する史料根拠が皆無であることを認められており、記事が無い理由を「鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」とされているのですが、いかにも苦しい言い訳としか聞こえません。ここに大和朝廷一元史観の宿痾と限界を見るのです。
 それでは鞠智城7世紀中葉造営の理由を古田史学(多元史観・九州王朝説)の立場からはどのような理解が可能となるでしょうか。まず7世紀中頃の九州王朝の大事業として「評制」の開始と難波副都(前期難波宮)の造営があげられます。唐や新羅の軍事的圧力に対抗するため、全国に中央集権的行政組織「評制」を施行し、その長官の「評督」や「助督」を任命しました。それと「副都詔」を発布し、まず難波に副都を造営しました。宮殿(前期難波宮)の完成は九州年号の白雉元年(652)です。
 またこの時期に北方の蝦夷国との戦いやその準備(柵の造営)も同時に行っています。その記録として『赤淵神社縁起』(兵庫県朝来市)も発見されました(「洛中洛外日記」604話・606話・608話・610話・611話・613話・614話・615話・618話・690話を参照、「赤淵神社」として一括掲載)。こうした九州王朝の状況から推測しますと、鞠智城造営の目的として次のことが考えられます。

1.唐・新羅の軍事的脅威に対応した太宰府の後方拠点(首都陥落に備えた臨時副都的性格)の確立。
2.九州中南部の評制施行の一環としての行政拠点の確立。

 これ以外にも目的があったかもしれませんが、多元史観・九州王朝説に立てばこのような仮説が考えられます。従って、こうした九州王朝の大事業が『日本書紀』に記されていないのも当然かもしれません。
 ちなみに、「隼人」は親九州王朝勢力ですから、対隼人経営のための鞠智城築城説は成立しません。『続日本紀』に見えるような、九州王朝末期(701年前後頃)に「隼人」が大和朝廷と激しく戦っていることも、九州王朝残存勢力が南九州で抵抗した痕跡であり、南九州が九州王朝にとって安定した支持勢力領域であったことの証拠に他ならないのです。ですから、鞠智城には「隼人」との戦闘に備えるような巨大防御施設(神籠石山城・水城など)が併設されていないのです。この点、大野城や水城・神籠石山城などの巨大防御施設で守られている太宰府とは地理的政治的条件が異なっていると言えるでしょう。


第1057話 2015/09/20

鞠智城7世紀中葉造営説が登場

 9月6日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会の当日、「鞠智城東京シンポジウム」が明治大学で開催されていました。その発表要旨集が、参加されていた菅原功夫さん(横浜市)から小林嘉朗さん(古田史学の会・副代表)を介していただきました。報告者によるパネル討論の発言内容についてのメモも添えられており、鞠智城造営年代についての重要な新説が発表されていたことがわかり、要旨集を精読しました。
 従来、鞠智城の創建年代については大野城と同時期の665年頃とされてきました。わたしは「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)「鞠智城のONライン(701年)」において、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されていることを紹介し、多元史観・九州王朝説による検討の結果、「Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ期は少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と指摘しました。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期〜7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末〜8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半〜8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期〜9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期〜10世紀第3四半期

 今回の「鞠智城東京シンポジウム」で出された新説は、基調報告「鞠智城と古代日本東西の城・柵」をされた岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)によるもので、菅原さんのメモによると岡田さんの発言として「創建は大野城、基肄城以前だ。対隼人との関係からと考えた。647〜648年頃に造営に着手した可能性を秘めている。」「665年前後に造ったのなら、それ以前の土器の存在についてはどうなのか。土器編年の問題。」とあります。そこで、要旨集の岡田さんのレジュメを精読したところ、次のように鞠智城造営年代について触れられていました。

 「結論として、私は鞠智城が白村江敗戦以降に築造されたのではなく、それ以前に南九州地方-熊襲・隼人の居住地域-を経営する城柵として大化改新後に造営され始めた「西海道最古の古代城」であろうと考えている。勿論、これを裏付ける史料は皆無なので、傍証として古代日本の城柵建設の動きを比較したい。」
 「西南日本では、7世紀中葉での南九州地方への対応は記録されておらず、約半世紀遅れて8世紀初頭に初見する。鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」(29頁)
 以上の記載から岡田さんは鞠智城の造営開始を大化改新(645年)後とされていることがわかります。パネル討論では具体的に「647〜648年頃に造営に着手」と述べられたのでしょう。
 この岡田新説に対して、他のパネラーからも次のような意見が述べられたことが、菅原さんのメモに記されています。

 佐藤信さん(東京大学大学院教授)「岡田先生が新しい知見、見方をした。新説だ。鞠智城の創建は書紀等の記述から大野城、基肄城と同様、665年頃と考えてきたのだが。」

 西住欣一郎さん(熊本県教育委員会)「岡田先生の主張はスムーズに理解できる。今後に期待を込めた講演だった。7世紀1/4期、2/4期の遺物は確かに存在している。」

 赤司義彦さん(福岡県教育庁総務部文化財保護課長)「大変なことになった。遺物は確かに古い。築城年代は何時か、考古学的には書紀の記述とは違う。648年、大野城の高野槇の木柱、皮を剥いでいるから650年頃だろう。白村江で負けてすぐに造って・・・、などと言うことではないだろう。」

 加藤友康さん(明治大学大学院特認教授)「証明が難しくてよくはわからない。」

 今回の岡田さんの新説は、わたしが「洛中洛外日記」で述べた編年修正「少なくとも四半世紀(20〜30年)は古くなる」と基本的に同様のもので、評価すべきものです。ただ、鞠智城造営の目的を「南九州経営」のためとされていますが、その史料根拠が皆無であることをご自身も認められているように、『日本書紀』の記述を正しいとする大和朝廷一元史観では説明できないのです。
 しかしこのシンポジウムには特筆すべき画期があります。赤司さんや佐藤さんの「発言」で明らかなように、従来の『日本書紀』などの史料に引きずられた考古学的出土物の編年から、考古学的事実に基づいて編年しなければならないという真っ当な主張が、一元史観の学界内から出され始めたことです。大和朝廷一元史観から古田史学・多元史観へと、日本古代史学の底流での変化が静かに、しかしはっきりと進行しているのです。(つづく)

 ※赤司義彦さんの研究などについては「洛中洛外日記」259話260話262話813話でも紹介していますので、是非ご参照ください。
 (洛中洛外日記「太宰府」を参考掲載)


第1056話 2015/09/19

銅鐸と三角縁神獣鏡の銅の原産地

 本日の関西例会では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、銅鐸や三角縁神獣鏡の銅の成分分析(鉛同位体比)により含まれている鉛の産地に関する新井宏さんの研究を紹介されました。
 新井さんによる膨大な分析データを整理し、銅鐸の銅と三角縁神獣鏡等の銅の成分が異なっていることが示されました。したがって銅矛圏の倭国勢力は銅鐸を壊しても、それを鏡の原料として再利用しなかったこととなります。なぜ再利用しなかったのか、その理由が今後の研究テーマとなりそうです。とても興味深い分析データでした。なお、来年正月の「古田史学の会」賀詞交換会の講演に新井さんを招聘することが、本日の役員会で決定されました。
 この他にも面白い発表が続きましたが、別途紹介したいと思います。9月例会の発表は次の通りでした。
 ※本日の例会発表の様子は竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)により、早くも「古田史学の会facebook」に掲載されました。速い!面白い!

〔9月度関西例会の内容〕
①「坊ちゃん」と清(高松市・西村秀己)
②鉛同位体測定と銅鐸(八尾市・服部静尚)
③「改新詔=七世紀中頃天下立評説」のまとめ(八尾市・服部静尚)
④金印「漢委奴国王」の「委奴」について(奈良市・出野正)
⑤加賀と肥後の道君(相模原市・冨川ケイ子)
⑥越前の「天皇」と対高句麗外交(相模原市・冨川ケイ子)
⑦続編『古事記』を是とする理由(東大阪市・萩野秀公)
⑧「・多利思北孤」という“文字”の由来と「鬼前・干食」の不思議(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(KBS京都放送ラジオ番組「本日、米團治日和」8/27収録、9/09・16・23オンエア)・9/01越中富山おわら「風の盆」の観光・9/06東京講演会に水野さんの娘さんが協力・史跡ハイキング(神戸深江生活文化史料館・他)・「最勝会」の研究。なぜ薬師寺に伝わるのか?・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』新人物往来社(1998/02)を読む・その他


第1055話 2015/09/16

阿蘇山噴火と古代史

 阿蘇山噴火のニュースに接し、改めて『隋書』の次の記事を反芻しました。

 「阿蘇山があり、その石は故無くして火をおこし天に接す。俗人これを異となし、因って祭祀を執り行う。」『隋書』(タイ)国伝

 わたしたち古田学派はこの記事などを根拠に九州王朝説を主張しているのですが、大和朝廷一元史観の研究者も『隋書』を「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠としていたことをご存じでしょうか。意外と思われるかもしれませんが、彼らのロジックは次のようなものでした。

1.「魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。」とあるから、『三国志』の時代の「邪馬台国」から隋の時代の7世紀まで同一王朝である。
2.7世紀に遣隋使を大和朝廷が派遣したことは『日本書紀』に記されており、7世紀の倭国の代表王朝は大和朝廷である。
3.『隋書』にある通り、7世紀の大和朝廷も3世紀の「邪馬台国」も連綿と続いた同一王朝である。
4.従って、「邪馬台国」の所在地は大和である。
5.だから、『隋書』に見える多利思北孤は大和朝廷の聖徳太子として問題ない。隋使が聖徳太子を倭国の天子と勘違いしただけである。

 およそこのようなロジックにより、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の根拠として『隋書』を利用してきました。しかしこのロジックにはいくつもの学問的誤りがあります。たとえば次の通りです。

A.大和朝廷が自らの「歴史」を自ら編纂した『日本書紀』の記述を無批判に信用している。『日本書紀』がどの程度正しいかという史料批判がなされていない。犯罪捜査で言えば、容疑者の「俺は無実だ」という証言を無批判に信用するというレベルで、まともな裁判官・検察ならこのようなことはしません。
B.『隋書』に記された国の人物名が『日本書紀』には一人として記されていない。犯罪捜査で言えば、名前や性別(多利思北孤は男性。妻も子供もいる。推古天皇は女性。)も異なる別人を逮捕するという冤罪そのものです。
C.『隋書』に記された「阿蘇山」や「竹斯」といった九州の地名は無視し、近畿地方の地名など一切記されていないのに、「舞台は奈良県だ」と主張する。

 他にもありますが、このレベルの話しが大和朝廷一元史観の学者によれば、「邪馬台国」畿内説や大和朝廷一元史観の「根拠」「論証」とされてしまうのですから、日本古代史学界は摩訶不思議な世界です。こんなことだから「阿蘇山が怒って噴火する」と言いたくもなります。


第1054話 2015/09/13

「空白の4世紀」? 読売新聞の不勉強

 出張先の長岡市のホテルで読んだ読売新聞(9月9日朝刊)に「大和王権『空白の4世紀』に光」という見出しで、奈良県御所市の中西、秋津両遺跡の橿原考古学研究所による「古墳時代前期で最大規模の建物群」の発表が紹介されていました。読売新聞社大阪本社編集委員・関口和哉さんによる署名記事ですが、「空白の4世紀」という表現に、読売新聞と言えども不勉強だな、との感想を持ちました。
 同記事冒頭のリードには次のように解説されています。

 「女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(2〜3世紀)と、中国に使者を送った「倭の五王」(5世紀)の時代の間は、大和王権が発展した重要な時期だが、中国の史書に倭国を巡る記述がなく、〈空白の4世紀〉と呼ばれている。」

 4世紀の倭国のことを記した中国の史書がないとあり、おそらくはこれは大和朝廷一元史観の学者の受け売り記事と思われますが、古田先生は「四世紀は『謎』ではない」とする論考を1978年に『邪馬一国への道標』(講談社)で発表されています(228ページ)。同書にて四世紀の倭国のことを記した同時代史書『広志』(晋の郭義恭による)の存在をあげられているのです。『広志』はその本全体は残念ながら現存していないのですが、いろいろな本に引用されています。たとえば『翰苑』の倭国の項の注に次のように引用されています。(『翰苑』は唐の張楚金により書かれたあと、雍公叡により注が付けられています。その注に『広志』や『魏略』などの散逸した史料が引用されており、貴重です。)

 「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)

 『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです。もっとも読売新聞の記者を責めるのも酷です。日本古代史学界の不勉強であり宿痾(古田説無視・大和朝廷一元史観)が真の原因なのですから。
 このように4世紀の倭国は「謎」でも「空白」でもありません。博多湾岸にあった邪馬壹国を都として、更に九州の西南端や屋久島について記した『広志』があり、従って、これら史料を無視しない限り「邪馬台国」東遷説など「仮説」としてさえも成立しないのです。畿内説に至っては学説でさえもないことは既に「洛中洛外日記」(「邪馬台国」畿内説は学説に非ず)で繰り返し説明してきたとおりです。
 投馬国の範囲について、昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と意見交換したのですが、邪馬壹国が「七万余戸」で、投馬国は「五万余戸」とあることから、投馬国は薩摩地方だけでは収まりきれず、大隅や日向も含んでいるのではないかとの考えを正木さんは示されました。なるほど、そうかもしれないと思いました。
 『広志』に記された「邪馬嘉国(山鹿)」ですが、わざわざ記されたことを考えると倭国内の重要な国であると考えられますから、山鹿市にある鞠智城との関係に興味をひかれます。鞠智城の成立が4世紀まで遡るとは考えにくいのですが、もともと重要な拠点都市であったことから、その地に鞠智城が造営されたのではないでしょうか。この点も、これからの楽しみな研究課題です。