上町台地に7世紀前半の寺院跡か
本年7月に発行された『葦火』182号に「幻の仏教施設が上町台地に?」(小田木富慈美さん)という興味深い記事が掲載されました。
前期難波宮の南西にある中央区上本町遺跡の難波京坊間路(条坊道路の中間にある道路)の溝やその周辺から飛鳥時代の平瓦や漆を入れた須恵器、蓮華文軒丸瓦などが出土したことが報告されています。特に蓮華文軒丸瓦は前期難波宮の西側から出土した前期難波宮と同時代の軒丸瓦と同笵の可能性があるとのこと。
これらの出土状況から、大阪市の中央を南北に延びる上町台地周辺には、飛鳥時代に多くの寺院(四天王寺・大別王寺・堂ヶ芝廃寺〔百済寺〕・細工谷廃寺〔百済尼寺〕)が建立されたことを紹介され、「今回の調査地域にも前期難波宮と同じ頃の寺院か仏教施設があった可能性が高くなってきた」とされています。
九州王朝は7世紀初頭の「河内戦争」に勝利して河内や難波に進出し、上町台地に難波天王寺や多くの寺院を建立し、652年には副都として前期難波宮や条坊都市難波京を造営したと、わたしは考えていますが、今回の報告はそのことと対応しています。そして何よりも、北部九州には7世紀前半の寺院遺跡が見つからないという「九州王朝説に刺さった三本の矢」のうちの《二の矢》に対する「答え」になる可能性をこの仮説は秘めています。正式な発掘調査報告書を待ちたいと思います。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。