2017年08月17日一覧

第1481話 2017/08/17

一元史観から見た前期難波宮(5)

 一元史観から見た前期難波宮として、この巨大宮殿を大和朝廷一元史観の研究者がどのように評価し、論じているのかを紹介してきました。本シリーズの最後に前期難波宮が日本古代史学界にもたらした学問的意義について説明します。その最たるものは、いわゆる大化改新論争への影響でした。
 『日本書紀』孝徳紀に見える大化二年(646)の改新詔について、歴史事実とする見解と『日本書紀』編者による創作であり大化改新はなかったとする説、そして両者の中間説として、大化改新に相当する詔は出されたが、その記事は8世紀の律令用語により脚色されているとする説がありました。どちらかというと大化改新はなかったとする説が有力視されていたようですが、前期難波宮の発掘調査が進み、その結果、学界の流れが大きく変化したのです。
 大化改新虚構説煮立たれている山尾幸久さんの論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化』133号、2007年)にも次の記述があります。

 「右のような『大化改新』への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、『現御神天皇』統治体制への転換を成し遂げた『大化改新』は、全く以て疑う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。」(11頁)

 大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られました。
 中尾芳治さんは、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)で次のように記されています。

 「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」
 「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)

 このように、巨大な朝堂院様式の前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。こうして、前期難波宮の出現は大化改新論争に決定的な影響を与え、孝徳期に前期難波宮を舞台に大化改新がなされたとする説が学界内で有力説となりました。
 古田学派内でも大化改新論争が続けられています。「古田史学の会」関西例会では『日本書紀』の大化二年条(646)に見える改新詔がその時期(九州年号の「常色」年間)に出されたものか、九州年号「大化」期(元年は695年)の「詔」が『日本書紀』編纂時に50年遡って転用されたものかについて、個別の「詔」ごとに論争と検討が続けられています。従って、「常色」年間の事件であれば前期難波宮がその舞台と考えられ、九州年号「大化」年間のことであれば舞台は藤原宮となり、このことについても論争が続けられています。
 最後に前期難波宮の巨大さを表現するために、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)はfacebookで前期難波宮の平面図を掲載され、その朝堂院の中に陸上の400mトラックがすっぽりと入ることを図示されました。冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)も前期難波宮の面積を計算され、朝堂院だけで約5万平方メートルあり、東京ドーム1個が入り、まだ1万平方メートルほど余裕があるとのことです。更にこの朝堂院の他に内裏や八角殿、正殿なども前期難波宮は含んでいます。この壮大な規模を古田学派の研究者にも実感していただければと願い、本稿を執筆しました。(完)