2017年10月29日一覧

第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1525話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(3)

 ある頃から古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになったのですが、そうした先生の認識の「揺らぎ」が『古田武彦の古代史百問百答』にも現れています。

 「九州年号の『白鳳』は白村江戦の前年(六六一)に発布されたものですが、その敗戦という一大変事を“通して”存続しています。しかも、二十三年間。敗戦(六六二もしくは六六三)からも、約二十年間の存続です。」(ミネルヴァ書房版〔2015年〕170頁、東京古田会版〔2006年〕76頁)

 このように、白村江戦を六六二年あるいは六六三年と両論の可能性を示唆する表現がなされています。更に遡った2000年1月22日の大阪市での講演会では次のように発言されています。

 「それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日になっていました。それが龍朔三年(六六三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということになるわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。」(古田武彦講演会「壬申の乱の大道」、古田史学の会HPに掲載)

 1990年代中頃から、『旧唐書』百済伝の記事からは白村江戦の年次を特定できないとする丸山さんの主張を支持する意見が古田学派内でも発表されるようになり、古田先生の見解にも変化が現れてきたように思います。(つづく)