『古田武彦の古代史百問百答』百考(4)
半年ぶりに「『古田武彦の古代史百問百答』百考」シリーズを再開します。『古田武彦の古代史百問百答』はファンや読者などからの質問に答えるという形式でテーマ別に編集されており、その時々の古田先生の意見の変化や問題意識のあり方などにも触れることができる好著です。そのために従来の見解と新たな見解に矛盾や非対応も散見されるのですが、古田史学の発展段階を知ることができ、むしろ同書の特徴と言ってもよいかもしれません。同書編集を担当された東京古田会の優れた業績の一つでしょう。
他方、「誤解」に基づいた質問とその「誤解」を前提とした回答も見られ、読者としてはちょっと用心してかからなければならないケースもあります。いわゆる学術論文ではなく、読者との質疑応答という読みやすさの追求と、そのときどきの認識に基いた古田先生の回答という同書の性格からすれば仕方がないのかもしれません。先生の三回忌が過ぎたこともあり、特に学問上重要な「誤解」について説明することにします。
ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」で次のような質問がなされています。
「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」
この質問の背景には、古田先生が晩年に主張された仮説で、『日本書紀』の皇極と斉明は別人であり、斉明天皇は九州王朝の天子「斉明」のこととされたことがあります。そこで、質問者は九州王朝の存在を隠している『日本書紀』に何故九州王朝の天子の名前で斉明紀が記されたのかという疑問をもたれたものと思われます。
この質問の趣旨や動機はよく理解できるのですが、実は複雑で大きな「誤解」が入り交じっています。それは次のような点です。わかりやすくするために箇条書きにします。
①『日本書紀』の神武天皇以降の一般的に称されている「○○天皇」の「○○」という漢字二字の呼称は漢風諡号と呼ばれ、『日本書紀』成立(720)の数十年後に淡海三船(722~785)により付記されたものと考えられています。ですから「斉明」も『日本書紀』編者が命名した天皇名ではなく、編纂時の『日本書紀』に記されていたものでもありません。
②「皇極」も同様に淡海三船が命名した漢風諡号で、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀に記された天皇の和風諡号は共に「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」で、同一人物として記されています。
③従って、もし皇極紀と斉明紀に記された天豊財重日足姫天皇がそれぞれ別人であると認識して、漢風諡号を「皇極」と「斉明」とに書き分けたとするのであれば、それは『日本書紀』編者ではなく淡海三船が行ったということになります。
④諡号とは死後の謚(おくり名)ですから、同一人物に二つの諡号があるのは不自然です。ですから、『日本書紀』編者が皇極紀も斉明紀も同一の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」を記しているのは当然です。
⑤他方、『日本書紀』には九州王朝の事績が転用(盗用)されていることを古田先生は指摘されていまから、斉明紀に九州王朝の記事がはめ込まれている可能性は大です。例えば「狂心の渠」説話など。
⑥従って質問の意図が、「斉明」という名称も九州王朝の天子の名前のはめ込みと理解しての質問なのか、斉明紀の記事に九州王朝の事績のみがはめ込まれているとしての質問なのかという問題があります。おそらくは前者の理解に立った質問と思われます。
⑦そうだとすれば、質問者は「斉明」という漢風諡号が『日本書紀』編者により編纂当初から記されたと「誤解」されていることになります。
以上のように少々ややこしい背景と問題認識がうかがわれる質問なのです。(つづく)