「天武朝」に律令はあったのか(4)
前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。
2017年1月に大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を「古田史学の会」で開催したのですが、そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(13層)から大量の漆容器が出土していたことを説明されました。その出土層位は「戊申年」(648年)木簡が出土した「谷1」(16層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。
江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、2006年3月)によれば、漆部司について次のように説明されています。
「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」522頁
「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。
この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」524頁
「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図329)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」525頁
このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。(つづく)