2018年01月23日一覧

第1586話 2018/01/23

筑前と豊前の古代寺院造営編年

 このところ、久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、各地の資料館図録をお借りすることが多くなりました。先日の「古田史学の会・関西例会」でも多数の図録を持参され、参加者に回覧されたのですが、中でも福岡県の苅田町歴史資料館が発行した『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)に貴重な情報が掲載されていましたので、お借りしました。
 最初に注目したのが、筑前と豊前の古代寺院のリストでした。それぞれ11の寺院が記載されており、その造営年が筑前よりも豊前のほうが古い寺院が多いのです。次の通りです。

《筑前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴・時期
大分廃寺 ・新羅系   ・七世紀後
観世音寺 ・老司式   ・八世紀前
般若寺  ・老司式   ・八世紀前
杉原廃寺跡・百済系   ・七世紀末
塔の原廃寺・山田寺式  ・七世紀後
三宅廃寺跡・老司式   ・八世紀前
城の原廃寺・不明    ・八世紀前
長者原廃寺・不明    ・八世紀前
御輿廃寺跡・不明    ・八世紀前
浜口廃寺跡・鴻臚館式  ・八世紀前
長安寺跡 ・鴻臚館式  ・八世紀前

《豊前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴 ・時期
天台寺跡 ・新羅百済高句麗・七世紀後
椿市廃寺 ・新羅百済高句麗・七世紀後
上坂廃寺 ・百済     ・七世紀後
木山廃寺 ・百済     ・七世紀後
垂水廃寺 ・新羅百済   ・七世紀後
相原廃寺 ・百済     ・七世紀後
塔の熊廃寺・新羅     ・八世紀前
小倉池廃寺・不明     ・七世紀後
法鏡寺跡 ・法隆寺式百済 ・七世紀後
虚空蔵寺跡・川原寺式法隆寺式・七世紀後
弥勒寺跡 ・鴻臚館式   ・八世紀前

 このリストでは、「7世紀後」とすべき「老司式」を「八世紀前」と編年されており、問題もありますが、筑前よりも豊前の寺院の方が全体として古い造営年代となっています。九州王朝説から考えると、首都(太宰府)がおかれた筑前に、古い寺院が多くあってほしいところです。このリストの当否の確認も含めて、九州王朝における豊前の位置づけを検討する必要を感じさせるものでした。


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)


第1583話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(2)

 九州王朝系「近江朝」という正木説は魅力的な仮説とわたしは考えていますが、先に指摘したように庚午年籍(670年籍)の全国的造籍の主体についての疑問点があります。この問題点を解決するために次のような可能性を考えてみました。論点整理を兼ねて箇条書きにします。

①正木説によれば、筑紫君薩夜麻は唐に捕らえられ、唐の配下の筑紫都督として唐軍と共に帰国(667年とされる)した。
②そうであれば、唐軍は筑紫の宮殿や墳墓を破壊する必要はない。
③現に大宰府政庁も観世音寺も破壊されずに8世紀以後も残っている。観世音寺の創建を670年(白鳳10年)とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)もあり、そうであれば唐軍進駐時での造営となる。防衛施設の水城にも破壊の痕跡はなく、8世紀以後も整備補修されていたことが考古学的にも明らかとなっている。
④筑紫都督(薩夜麻)を介して倭国を間接支配しようとする唐軍にとって、その造籍事業に反対する必要はなく、むしろ近江朝と対抗するためにも薩夜麻の筑紫支配強化に協力する必要がある。大宰府政庁Ⅱ期(筑紫都督府)の造営もその一貫か。
⑤以上の理解から、正木説が正しければ、白村江戦後の倭国には近江朝(反唐の天智)と筑紫都督府(親唐の薩夜麻)との二重権力状態が発生していたと考えられる。
⑥他方、庚午年籍が筑紫を含め全国で造籍されていたことは、『続日本紀』など後代史料により明らか。
⑦二重権力状態での全国的造籍を説明できる作業仮説として、筑紫都督府による九州地方の造籍と近江朝による九州以外の地域での造籍事業が同時期に行われたと考えざるを得ない。

 以上のように、①〜⑥の論理展開により、作業仮説⑦に至りました。次回は、この作業仮説を支持する史料的痕跡を紹介します。(つづく)