2018年01月14日一覧

第1575話 2018/01/14

『早良郡志』に見える「筑紫殿塚」

 本日開催される「九州古代史の会」の正月例会を聴講するため、帰省を兼ねて福岡市早良区の藤崎駅近くのももち文化センターに来ました。1時間ほど早く到着したので、隣接する早良図書館で『早良郡志』(大正12年、早良郡役所編纂。昭和48年、名著出版復刻版)を読みました。その中で次のような記事がありましたので、紹介します。

 「大王塚 原の東方三町の所に、大王塚と謂ふのがある。長三間横一間許りで一株の松がある由来詳かでない。」(原村史跡 124頁)

 「筑紫殿塚 小田部の東二町の田間に筑紫殿の塚といふのがある。里人は又大塚とも謂つて居る。周四十間幅三間許の小丘三段に分かれ上の段には、土手が廻つて居るも何人の墓であるか詳かでない。」(原村史跡 125頁)

 この地に「筑紫殿塚」と伝承されている墳墓が存在することに興味深く思いました。墳墓の年代などこの記事からは不明ですが、九州王朝の王家「筑紫君」の一族の墓ではないかと思われます。大王塚はその「大王」という呼称から、筑紫殿塚よりも古いように思います。当地の研究者による多元史観・九州王朝説に基づいた調査研究を期待したいと思います。
 なお、当地「早良郡」には、古田先生が『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」「難波朝廷」の所在地とされた愛宕神社があります。同神社は『早良郡志』にも紹介されていますが、7世紀に遡るような宮殿伝承や遺構、王朝関連記事はありませんでした。


第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)