『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)
先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)