九州王朝の「東大寺」問題(3)
九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院遺跡が筑後から見つかっていないことから、次に7世紀初頭から太宰府遷都した倭京元年(618)頃の筑前を検討してみました。
九州王朝を代表する寺院である観世音寺は創建が白鳳10年(670)と考えられますから、全国国府寺の「総本山」とすることができません。この他には太宰府条坊都市内に「般若寺」が出土していますが、これも創建瓦として観世音寺と同じ老司Ⅰ式が出土しているため、7世紀後半頃となり、「総本山」とするには時代が新しく対象から外れます。
そこでわたしが注目しているのが観世音寺寺域から出土した百済系素弁軒丸瓦です。「洛中洛外日記」1638〜1644話「百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)〜(6)」で論じましたが、白鳳10年創建の観世音寺に先行する寺院がこの地に存在していたことはまず間違いないと思われます。ただ、礎石などの遺構は不明です。太宰府条坊の右郭中心部の「通古賀」の北東ですから、条坊都市造営に当たり、全国国府寺の「総本山」が置かれていても妥当な位置ではないでしょうか。しかもご本尊は百済伝来の阿弥陀如来像ですから、格式からしても問題ないと思いますがいかがでしょうか。
この他の有力候補遺跡としては筑前ではありませんが、小郡市の井上廃寺があります。出土瓦編年の再検討が必要ですが、候補としてあげておきたいと思います。