観世音寺古図の史料性格
「洛中洛外日記」1694話の「観世音寺古図の五重塔『二重基壇』」で触れた「観世音寺古図」の史料性格については、拙稿「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」(『古田史学会報』No.50所収。2002年6月1日)で次のように説明していますので、転載します。
【以下転載】
養老絵図と大宝四年縁起
古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである。
同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう。
【転載終わり】
観世音寺古図に描かれた五重塔の「二重基壇」と考古学的出土状況による「二重基壇」の可能性との一致は、この古図が創建観世音寺を描いた「養老絵図」を書写したものとする理解を支持しています。
また、観世音寺の「大宝四年縁起」が存在していたということは、大宝四年(704)以前に観世音寺は創建されていたことになり、一元史観の通説のように観世音寺創建を8世紀前半とする見解よりも、九州年号史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)に見えるように白鳳10年(670)創建説を支持するようです。