2018年08月28日一覧

第1735話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (3)

 杉本直治郞博士とベークの学問を日本で継承された村岡典嗣先生との接点はなかったのかを調査するため、杉本博士が「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)の冒頭に、昭和15年に公刊した著書『阿倍仲麻呂傳研究』(東京、育芳社)に「天の原」の歌についての新説を提唱しておいたと記されているので、その『阿倍仲麻呂傳研究』を京都府立大学図書館(歴彩館2F)で閲覧しました。

 調査の結果、1968年に『文学』掲載の「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」で提唱された「天の原」歌に関する新説が『阿倍仲麻呂傳研究』の「朝衡の離唐」(343-389頁)に既に記されていたことを確認しました。従って、わたしがフィロロギーの方法論に立脚したものではないかと感じた杉本博士の「天の原」歌の新説は昭和15年(1940)には発表されていたことになります。1940年といえば村岡先生が東北帝国大学法文学部教授として日本思想史科で活躍されていた頃です。ちなみに、村岡先生が6歳年長です。

 そこで杉本博士と村岡先生の略歴を調べてみました。そうすると両氏の接点らしきものが見えてきました。それは「広島高等師範学校」です。東京出身の村岡先生は明治44年(1911年、27歳)に名著『本居宣長』を上梓され、その業績により大正9年(1920)に広島高等師範学校教授に就任され、大正13年(1924)には東北帝国大学教授になっておられます。

 一方、滋賀県出身の杉本博士は滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ばれ、その後、広島高等師範学校に入学、大正7年(1918)に卒業されています。このように両氏は広島高等師範学校に教師と学生として関わっておられるのですが、その時期は重なっていません。その後、杉本博士は大正14年〜昭和4年(1925-1929)の間、旧制広島高校の教授に、昭和4年(1929)には広島文理科大学の助教授に就任されています。

 広島には古田先生の恩師で旧制広島高校の教師だった岡田甫先生もおられました。この広島の地に村岡先生・岡田先生そして杉本博士の接点があったのではないかと推定しています。機会があれば、引き続き調査したいと思います。

【杉本直治郞博士の略歴】
明治23年(1890)3月、滋賀県で誕生。
滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ぶ。その後、広島高等師範学校で山下寅次教授のもとで東洋史・漢文を学ぶ。
大正7年(1918)卒業。
大阪府立北野中学(現府立北野高校)で教壇に立つ。
大正9年(1920)京都帝国大学に30歳で入学、東洋史を本格的に学ぶ。主任教授は内藤湖南。
卒業後しばらくは大学で副手となる。
大正14年〜昭和4年(1925-1929)旧制広島高校教授。
昭和4年(1929)広島文理科大学の助教授に就任。フランス・イギリス・インドシナ留学。
帰国後、昭和15年(1940)に『阿倍仲麻呂傳研究』を上梓。
戦後、広島大学文学部に籍を移す。
昭和22年(1947)『阿倍仲麻呂傳研究』により京都大学で文学博士号を取得。その審査委員に宮崎市定教授の名前が見える。
昭和30年(1955)退官。その後広島商科大学教授に就任。
昭和48年(1973)9月、京都市一乗寺で逝去。享年83歳。

【村岡典嗣先生の略歴】
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第1734話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (2)

 杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)がフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかと考えたのですが、何かそのことを示す証拠はないだろうかと、わたしは同論稿を再読しました。そうすると論稿末尾の次の記事に気づきました。

 「(前略)文字通りのアルバイト(労働)の積み重ねによって、できるだけ厳密な、文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)により、確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。」(1289頁)

 わざわざドイツ語の「アルバイト(労働)」や「文献的批判的方法(Philologische=Kritische Methode)」を用いて説明されているところを見ると、杉本博士はドイツでアウグスト・ベークが提唱したフィロロギーを知っていたのではないかと思われました。そこで、「古田史学の会・関西例会」でベークのフィロロギーを講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)のご意見を聞いてみたところ、次のような感想をいただきました。

 「Philologische=Kritische Methodeはドイツ語の一般的な単語で、フィロロギー特有の用語ではない。〝確実なる歴史事実を把握し、自由なる想像よりも、史実を前提とする推理によって、あくまで真実に肉薄しなければならない。〟という考え方はフィロロギーとは異なる。フィロロギーにとって〝確実なる歴史事実を把握〟は前提ではなく、むしろ結果である。」

 このように述べられ、この部分はベークのフィロロギーとは異なるとのご意見でした。ただベークには何人かの後継者が細い糸で繋がっており、その影響を間接的に杉本氏が受けた可能性は否定できないとのこと。そこでわたしはベークの学問を日本において〝細い糸〟として継承された村岡典嗣先生と杉本直治郞博士に接点があったのではないかと考え、調査することにしました。(つづく)