2018年10月一覧

第1777話 2018/10/26

難波と筑前の古代都市比較研究

 大阪文化財研究所『研究紀要』第19号(2018年3月)に今まで読んだことがないような衝撃的な論文が掲載されていました。南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」という論文です。このタイトルだけでも九州王朝説・古田学派の研究者や「洛中洛外日記」の読者であれば関心を持たれるのではないでしょうか。「博多湾岸」といえば天孫降臨以来の九州王朝の中枢領域ですし、「上町台地の都市化」と聞けばまず前期難波宮を連想し、この両地名により前期難波宮九州王朝副都説が思い浮かぶはずだからです。もちろん、わたしもそうでした。
 この論文は五世紀の古墳時代から七世紀前半の前期難波宮以前の上町台地の都市化の経緯を出土事実に基づき、世界の都市化研究との対比により考察したもので、更に上町台地との比較で福岡平野の比恵・那珂遺跡の分析を行ったものです。論文冒頭の「要旨」には次のように記されています。

 「要旨 地政学的位置が類似する大阪上町台地と博多湾岸を対象に、都城制以前の都市化について、外部依存と機能分化を指標に比較・検討した。上町台地では、5世紀以降三つの段階を経て、6世紀末には、木材・農産物・原材料を外部に依存し、手工業生産を膝下に抱える需給体制が整備され、工房群・港・各種の行政外交施設を地形に即して分置した機能分化が進行した。6世紀後葉には、世界標準に照らして都市と呼ぶべき姿となっていた。一方の博多湾岸の比恵・那珂遺跡も、手工業を広域で分担した違いはあるが、7世紀前半には類似した内部構成を取っていた。2地域の都市化には、ミヤケ(難波屯倉・摂津官家)による、地形環境の変化に適合した開発・殖産が大きな動因となったと考える。」

 この論文でわたしが最も注目したのは、数ある遺跡の中でなぜ上町台地との比較対象に博多湾岸の比恵・那珂遺跡が選ばれたのかという理由と、上町台地北部から出土した5世紀の法円坂遺跡の大型倉庫群について漏らされた次の疑問でした。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた〔南2014b〕。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した〔南2013〕。」(2頁)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている〔佐藤2016〕。」(3頁)
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(16頁)

 ここに記された法円坂倉庫群を必要とした王宮・王権とは、わたしは九州王朝が河内・難波を6世紀末頃の「河内戦争」により直轄支配領域とする以前に当地を支配した王者のことではなかったかと推定しています。近畿天皇家一元史観論者であればこの倉庫群を「大和朝廷の出先機関」と結論づけるところでしょうが、南さんは「簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい」とされ、出土事実を重視される考古学者らしい慎重さがうかがわれます。その上で、次の記述で論文を締めくくっておられます。

 「都城制以前の都市化については、政治拠点・王宮の所在地の奈良盆地との対比が必須である。これは今後の課題としたい。」(17頁)

 わたしとしては、南さんが上町台地と比恵・那珂遺跡を対比されたように、九州王朝の政治拠点・王宮所在地の筑紫との対比をまず行っていただきたいところです。


第1776話 2018/10/25

八雲神社にあった金印

 「洛中洛外日記」806話(2014/10/19)「細石神社にあった金印」で紹介したのですが、『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房)に志賀島の金印「漢委奴国王」が糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されています。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となりました。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのことです。
 志賀島から出土したとする「文書」の不審点が以前から指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。そのため、この細石神社に「金印」が伝えられていたという情報にわたしたちは注目してきました。しかし、当地の関係者の口伝でしか根拠がなく、学問研究の対象とするには難しさが伴っていました。ところがこの度、福岡市西区の川岡保さんから驚くような不思議な新情報が寄せられました。
 FACEBOOKでお付き合いしている川岡さんが、10月14日に久留米大学で開催した講演会に見えられ、金印は福岡市西区今宿にある八雲神社の御神宝として伝えられたもので、筑前黒田藩の大儒として著名な亀井南冥が同神社から借り受けたものとする資料をいただきました。しかもその「証言者」についても具体的な氏名が伝えられていたのです。(つづく)


第1775話 2018/10/22

太宰府条坊七世紀後半造営説

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁Ⅱ期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁Ⅱ期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①飛鳥考(八尾市・服部静尚)
②倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
③吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
④亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
⑤藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
⑥発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
⑦俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他


第1774話 2018/10/19

創建四天王寺の4度西偏

 「洛中洛外日記」1073話(2015/10/11)「四天王寺伽藍方位の西偏」で紹介したように、難波京の条坊はかなり正確に中心線が正方位に一致していますが、その難波京内にある現・四天王寺の主要伽藍の南北軸が真北より5度程度西に振れています(目視による)。この西偏が創建時まで遡るのか、その後の何度かの再建時に発生したものか、ずっと気になっていました。そのことについて、1073話「四天王寺伽藍方位の西偏」では次のように考えていました。

【以下、転載】
(前略)四天王寺(天王寺)が創建された倭京二年(619年、『二中歴』による)にはまだ条坊はできていませんから、天王寺は最初から「西偏」して造営されたのではないでしょうか。その「西偏」が現在までの再建にあたり、踏襲され続けてきたという可能性です。

 もし、そうであれば九州王朝の「聖徳」が難波に天王寺を創建したときは、南北軸を真北から「西偏」させるという設計思想を採用し、その後の白雉元年(652年)に前期難波宮と条坊を造営したときは真北方位を採用したということになります。この設計思想の変化が何によるものかは不明です(後略)
【転載終わり】

 この疑問を解明するために、先日、大阪歴博を訪問し、学芸員の方に創建四天王寺の図面を見せていただきました。閉架の書庫に保管されていた昭和42年発行の分厚い書籍『四天王寺』(文化財保護委員会編、吉川弘文館)に収録されている創建四天王寺の平面図を懇切丁寧に解説していただきました。その概要は次のようなものでした。

①昭和42年当時の発掘調査平面図は「磁北」が採用されており、方位を判断する際は注意が必要である。
②創建四天王寺図面(図版136)の方位表示には、遺構の中心線が磁北から3度東偏していることが記されている。
③調査当時の磁北は約7度西偏していることから、創建四天王寺の中心線は正方位より約4度西偏していることになる。
④四天王寺は再建が繰り返され現在の伽藍に至っているが、現在も西偏していることから、創建四天王寺の4度西偏した遺構の上にそのまま再建されたこととなる。
⑤前期難波宮の中心線(正方位との差は0度40分)には及ばないが、四天王寺は正方位を意識して造営されたと考えられる。前期難波宮に付属する建物(西方官衙)にも正方位からややずれたものもある。
⑥前期難波宮以前の上町台地にあった建物遺構は正方位とは大きく離れているが、それらに比べると四天王寺は正方位を意識した造営がなされたと考えられる。

 以上、考古学者らしく発掘調査事実に基づいた慎重な説明で、『四天王寺』に記された遺構の解説とも矛盾していませんでした。同書には創建時の伽藍図面の他にも、平安時代と江戸時代(慶長・元和)の「中心伽藍復元模式図」が掲載されており、いずれも西偏した創建四天王寺の真上に同じ中心線がとられています。そのことから、現在の四天王寺が創建時の西偏を踏襲しているとしたわたしの推測は当たっていたことがわかりました。

 このような考古学的事実から推測できることは、「倭京二年」(619、『二中歴』年代歴)に「難波天王寺」(四天王寺)を創建した九州王朝は正方位を意識しながらもなぜか約4度西偏した中心線を採用し、白雉元年(652、『日本書紀』の白雉三年)に造営した前期難波宮に至り、正方位に一致した中心線を採用したことになります。この変化が、方位測定技術の向上の結果として発生したのか、「4度西偏」に何かしらの意味(設計思想)があったのかは不明ですが、この点は研究課題として留意しておきたいと思います。

 なお、学問的厳密性保持のために両遺構の編年について改めて説明しておきます。まず、『二中歴』年代歴の記事を根拠に四天王寺創建を倭京二年(619)とすることは、出土した創建軒丸瓦の考古学編年の「620年頃」と一致し、文献史学と考古学のクロスチェックが成立しており信頼性が高いと思われます。

 次いで、その創建瓦と同笵の瓦が前期難波宮整地層から出土しており、倭京二年(619)創建の四天王寺よりも前期難波宮造営が新しいことを示唆しています。更に前期難波宮の水利施設から大量に出土した須恵器杯Gの編年が七世紀前半から中頃とされており、出土木材の年輪年代測定などからも考古学的には前期難波宮の創建は七世紀中頃とされています。「戊申年」(648)木簡の出土や巨大な前期難波宮完成に対応する記事が『日本書紀』孝徳紀白雉三年(652、九州年号の白雉元年)記事に見えることから、ここでも文献史学と考古学のクロスチェックが成立しています。

 このようにクロスチェックによる安定した編年が確定している創建四天王寺や前期難波宮遺構の中心線方位に基づき、九州王朝の寺院や宮殿の設計思想の変遷を推定することが学問の方法からも重要と考えています。


第1773話 2018/10/13

土器と瓦による遺構編年の難しさ(9)

 創建時期の判定に使用された創建瓦より古く編年されている瓦が一枚だけ出土するという事例は観世音寺以外にもあります。本連載の最後にその事例を紹介し、そのことが持つ学問的意義と可能性について説明します。
それは大阪市天王寺区国分町の摂津国分寺跡から出土した軒丸瓦一点です。この瓦は7世紀前半頃と編年されている「素弁蓮華文軒丸瓦」で、他の時代の瓦に混じってその破片が一点だけ出土しているのです。発掘調査報告書によれば当地からは古代瓦などが出土しており、現地地名も天王寺区国分町であることから、ここに聖武天皇による摂津国分寺があったとする説が有力視されています。

 『四天王寺旧境内遺跡発掘調査報告Ⅰ』(1996.3大阪市文化財協会)に記された摂津国分寺跡出土瓦の図表には「素弁蓮華文軒丸瓦」片(SK90-2出土)と共に8世紀のものと見られる「複弁六葉蓮華文軒丸瓦」や「重圏文軒丸瓦」が掲載されています。そしてこの瓦について「ほかに一点だけこれらの瓦より古い瓦が出土しているので、奈良時代にこの地に国分寺が造られる以前にも寺があった可能性も考えなければならない。」(105ページ)とされています。

 『大阪市北部遺跡群発掘調査報告』(2015.3、大阪文化財研究所)においても、この瓦のことを「一方で、SK90-2次調査では7世紀代とみられる素弁蓮華文軒丸瓦が出土しており、国分寺以前にこの地に寺のあった可能性も指摘されている。」(160ページ)としています。

 このように聖武天皇の命により8世紀中頃以降に創建された国分寺遺構からより古い瓦が出土すると「国分寺が造られる以前にも寺があった」と解釈されるのが通例です。しかし、摂津には大阪市北区にも国分寺が現存しており、この「二つの国分寺」という現象を多元史観・九州王朝説の視点でとらえると、7世紀前半頃の九州王朝による国分寺(国府寺)と聖武天皇による八世紀中頃の国分寺という多元的「国分寺」というテーマが浮かび上がります。

 この「二つの摂津国分寺」とは、ひとつは大阪市北区国分寺にある護国山国分寺で、「長柄の国分寺」とも称されています。もう一つは先に紹介した天王寺区国分町にある国分寺跡です。一元史観による説明では、北区に現存する国分寺は摂津国府が平安時代(延暦24年、805年)に上町台地北側の渡辺に移転したことに伴って「国分寺」を担当したとされているようです(『摂津国分寺跡発掘調査報告』2012.2、大阪文化財研究所)。

 なお、北区にある「真言宗国分寺派 大本山 国分寺(摂津之国 国分寺)」のホームページによれば、その地は「長柄」と呼ばれていたことから「長柄の国分寺」とも称されています。以下、同解説を転載します。

 【転載】
寺伝によると、大化元年(六四五年)末に孝徳天皇が難波長柄豊碕宮を造営するも、崩御の後、斉明天皇により飛鳥板蓋宮へ遷都される。その後、入唐大阿闍梨道昭、勅を奉じて先帝の菩提を祈るため難波長柄豊碕宮の旧址に一宇を建立し「長柄寺」と称した。そして、仏教に深く帰依した聖武天皇により天平十三年(七四一年)一国一寺の「国分寺建立の詔」を公布されると、既存の「長柄寺」を摂津之国国分寺(金光明四天王護国之寺)として定める。世俗「長柄の国分寺」と称され、今日まで歴代天皇十四帝の勅願道場として由緒ある法灯を伝燈してきた。古くは難波往古図に「国分尼寺」として記載されている。
【転載終わり】

 このように一枚の古い瓦と「二つの国分寺」の存在は、寺院遺構の編年という問題を超えて、多元的「国分寺」研究という新たな学問的展開を予想させるのです。


第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)


第1771話 2018/10/11

土器と瓦による遺構編年の難しさ(7)

 『日本書紀』の記事にリンクして暦年を推定した創建法隆寺(若草伽藍)のケースとは異なり、『日本書紀』の記事を採用せずに見事な編年に成功した事例があります。それは大阪歴博による四天王寺創建瓦(素弁蓮華文軒丸瓦)による編年です。
 若草伽藍以上に長期間存続し、再建も繰り返された四天王寺からは七世紀初頭の創建瓦を筆頭に戦国時代に至るまでの多種類の瓦が出土しています。『日本書紀』によれば四天王寺の創建は六世紀末とされていますが、出土した創建瓦を大阪歴博の考古学者たちは七世紀前半(620-630)と編年し、次のような展示がされていました。
 それは「素弁蓮華文軒丸瓦」と呼ばれる三個の瓦で、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦です。時代も7世紀前葉とされており、四天王寺創建年代との関連などから620〜630年代頃と編年されています(展示説明文による)。大阪歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』にも記されていない複数の寺院が建立されていたようです。
 この展示の編年に驚いたわたしは、大阪歴博の考古学者で古代建築専門家の李陽浩さんに編年の根拠をお聞きしました。李さんの見解は次のようなものでした。

 ①若草伽藍の創建瓦「素弁蓮華文軒丸瓦」と四天王寺の創建瓦、前期難波宮下層出土瓦は同笵瓦であり、それらの文様のくずれ具合から判断すれば、前期難波宮下層出土瓦よりも四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、古いと判断できる。
 ②この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
 ③しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
 ④史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。

 おおよそ以上のような解説がなされました。わたしは誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、大阪歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 このように四天王寺(天王寺)創建瓦の編年は考古学と文献(『二中歴』九州年号史料)の一致というクロスチェックが成立した見事な事例ではないでしょうか。(つづく)


第1770話 2018/10/10

『古田史学会報』148号のご案内

 『古田史学会報』148号が発行されましたので、ご紹介します。今号は全国各地の七名の方からバラエティーに富んだ諸テーマの論稿が寄せられ、読んで楽しい会報となりました。

 谷本さんからは久しぶりの論稿です。『日本書紀』に一年のずれがあるというテーマについては古田学派内では少なからぬ論稿が発表されていますが、谷本さんは那須国造碑という同時代金石文を根拠に持統紀の記事のずれを論証するという手堅い方法を採用されました。読んでいて安定感のある論稿でした。
札幌市の阿部さんからは『隋書』国伝の記事から、倭国の都が近畿ではなく「肥」であるとする仮説が発表されました。阿部さんならではの視点の鋭さを感じました。

 わたしは高安城を史料や地勢的に見て、九州王朝の城と見なせるとの研究を発表しました。正木裕さんの研究にアイデアを得たもので、九州王朝が副都前期難波宮の造営にあたって大がかりな防御施設を構築していたことがわかりました。

 松山市の合田さん(古田史学の会・四国 事務局長)からは、『東日流外三郡誌』の存在を昭和38年時点で永田富智先生から聞かれたという貴重なエピソードを書いていただきました。偽作説を否定する貴重な証言です。
今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』148号の内容
○「那須国造碑」からみた『日本書紀』紀年の信憑性 神戸市 谷本 茂
○『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出 松山市 合田洋一
○「浄御原令」を考える 八尾市 服部静尚
○九州王朝の高安城 京都市 古賀達也
○『隋書国伝』の「本国」と「附庸国」 -行程記事から見える事- 札幌市 阿部周一
○聖徳太子の伝記の中の九州年号が消された理由 京都市 岡下英夫
○「壹」から始める古田史学16 「倭の五王」と九州王朝 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○10/14会誌発刊記念久留米大学講演会のお知らせ
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○各種講演会のお知らせ 10/31 NHK文化センター梅田教室 講師 谷本茂さん
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1769話 2018/10/07

土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)

 創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
 この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
 付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)


第1768話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(5)

 瓦の編年も土器と同様に軒丸瓦や軒平瓦の文様などにより行うのですが、製法の違いも編年に利用されます。たとえば「紐造り」「板造り」などの製造技術によっても相対編年が可能とされています。ただ土器編年と異なり、瓦が古代建築に使用された歴史は新しく、国内では6世紀末頃からですので編年に利用できるのはそれ以後と限定されます。しかし、6世紀末頃からですと『日本書紀』など文献史料による記事と対応できるケースが増えますので、場合によってはピンポイントで創建年(暦年)と瓦の編年がリンクできるという長所になります。
 国内における瓦の使用は主に寺院とされていますから、文献史料にその創建年の記録が残されていれば、創建瓦の暦年とのリンクが可能となる長所があるのですが、瓦の葺き替えというケースもあって、異なる年代と編年された瓦が同じ場所(層位)から出土するという現象が発生します。このことが瓦による遺構の編年(創建年判定)を難しくする要因となるのです。
 有名な例で説明しますと、法隆寺若草伽藍(7世紀初頭の創建法隆寺)出土瓦の事例が顕著にこの問題を現しています。この「創建法隆寺」は考古学的には若草伽藍と呼ばれており、『日本書紀』によれば606年(推古14年)の創建、670年(天智19年)に焼失したとされています。その若草伽藍跡から異なる時代と編年された瓦が出土しているのですが、その理由として考えられるのが瓦の葺き替え、あるいは部分的取り替えというケースです。
 若草伽藍は創建から焼失まで約60年間存続しており、仮に10年に一度のペースで葺き替えや部分修理が行われた場合では、最大で約50年ほどの時代が異なる瓦が併存することとなります。その結果、大きく編年の異なる瓦が焼失時に同じ場所の同じ層位に埋まるという遺構状況が発生するのです。こうした現象が瓦による遺構編年の難しさの一因としてあげられます。(つづく)


第1767話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(4)

 土器編年で思い出すことに古田先生からお聞きした次のような編年方法があります。三十年ほど以前のことと記憶していますが、当時、ある発掘現場で出土土器の編年の際に学芸員が様式別に振り分けていたそうで、そこからは編年が異なる複数の土器が出土していたので、様式別に土器の出土量の比率を計算し、その比率の違いによって遺跡の編年を行うべきではないかと古田先生は提案されたそうです。ところが学芸員はそのようなことは行ったことがなく困った顔をされたそうです。
 恐らく当時は出土した土器の中で一番新しいものの編年から遺跡の年代(上限)を推定されていたと思います。土器は多くが割れた状態で出土しますから、編年毎の個数を割り出すということは大変です。従って、異なる編年毎の出土数分布の差異を相対編年に利用するという考えは普及していなかったと思われます。近年の発掘調査報告書などにはそうした視点も取り入れて遺跡の編年に利用するという事例もありますので、30年前に古田先生が提案された方法が正しかったことがわかります。
 このような研究対象物の特性分布を二次元解析や三次元解析する方法は自然科学の世界では必要であれば当然のように行いますから、ようやく日本の考古学界もその水準に到達しつつあるのかもしれません。他方、近畿以外の地方での発掘調査は予算も時間も人員も十分ではないため、懸命に発掘調査に従事している考古学者や地方自治体の学芸員にそこまで求めるのは酷かもしれません。
 次回からは「瓦による遺構編年の難しさ」に入りますが、土器とはまた異なった難しさを持っています。(つづく)


第1766話 2018/10/05

土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)

 土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
 「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
 そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
 その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)