土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)
寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。
「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)
九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)