2019年05月22日一覧

第1904話 2019/05/22

那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道

 昨日、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりとても感慨深く象徴的な情報が寄せられました。2019/02/14付の西日本新聞朝刊の記事です(本稿末尾に転載)。従来、大和の影響を受けた「纒向(まきむく)型」とみられていた福岡市の那珂八幡古墳の形状が北九州独自のものであることが判明したというものです。
 その詳細は同記事をお読みいただくとして、この記事が持つ学問的画期性について触れたいと思います。それは一言で言えば福岡県の考古学者が大和朝廷一元史観に基づく出土物・遺構解釈から離れて、多元史観による解釈を出土事実に基づき公然と主張しだしたということです。そしてそれをマスコミ(西日本新聞)が報道するようになったという社会の変化(潮目が変わりつつある)が顕著に表れだしたという点です。この傾向は近年の〝弥生時代のすずり〟が福岡県から出土していたという報道が立て続けにあったことからもうかがえていましたが、それが古墳時代でも開始されたということに、わたしは着目しています。当然のこととして、その変化は六世紀からの九州年号の時代いわゆる〝飛鳥時代〟へと続くことが予見されるからです。
 実はこの傾向は大阪歴博の考古学者を中心に数年前から見られてきたもので、今回の記事で紹介されている福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは、昨年12月に大阪歴博で開催されたシンポジウム「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ー大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地ー」で、「列島最古の『都市』 福岡市比恵・那珂遺跡群」を発表されています。なお、このシンポジウムの司会は6月16日(日)の古代史講演会(i-siteなんば、「古田史学の会」共催)で講演される南秀雄さん(大阪文化財研究所長)で、南さんも「大阪上町台地の都市化と奈良盆地の比較」を発表されています。
 こうした考古学者の研究発表は、『日本書紀』を根拠とする大和朝廷一元史観とは異なる古代史像を提示するもので、古田先生が提起された多元史観はまず考古学の分野で承認されるものと思われます。
 なお、西日本新聞の記事には博多湾岸を「奴国」とするなど、まだまだ学問的に不適切な部分も含んでいます。しかし、こうした国名などの比定は文献史学の成果に委ねられており、わたしたち古田学派が一元史観との論争(他流試合)の先頭に立たなければなりません。そのためにも更に研鑽を深めたいと願っています。本年11月に開催される「新・八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2019)」では、他流試合に通用する(一元史観論者をも説得できる)研究者の登場が期待されます。

【2019/02/14付 西日本新聞朝刊】
「ヤマトに服属」定説に一石か
福岡市の那珂八幡古墳
北部九州独自の形状

 古墳時代開始期前後(3世紀)に造られたとみられる前方後円墳・那珂八幡古墳(福岡市博多区)の形が北部九州独自のものであることが、同市の発掘調査で明らかになった。最古級とされる同古墳の形状が近畿とは違うことから、ヤマト王権に服属した証しとして地方の勢力がヤマトをまねて前方後円墳を築造したとする古墳時代像に一石を投じることになりそうだ。
 これまで那珂八幡古墳は「纒向(まきむく)型」とみられていた。纒向型は、古墳時代開始期前後に近畿で築造された纒向石塚古墳(奈良県桜井市)のように、後円部と前方部の長さの比率が2対1で、前方部の端が広がっている形状の古墳を指す。全国に分布し、ヤマト王権の勢力の広がりを示すとされてきた。
 しかし、今回の調査により那珂八幡古墳は、従来75メートルとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45メートルより狭く、纒向型と異なっていた。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「近畿の古墳をまるまるコピーしたのではない」と話す。一帯は魏志倭人伝に出てくる奴国の中心部で、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。
 似た形状を持つ古墳は、北部九州の戸原王塚古墳(福岡県粕屋町)や赤塚古墳(大分県宇佐市)などがあるとされるが、いずれも那珂八幡古墳よりも新しい。香川県に分布する開始期前後の前方後円墳も近畿とは形が違い、「讃岐(さぬき)型」と呼ばれることがある。こうしたことから、九州大の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性があった可能性がある」と話している。
 那珂八幡古墳の現地説明会は16日午前10時から開催される。