2019年10月31日一覧

第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。


第2028話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(4)

 満月寺五重石塔の「正和四年乙卯夘月五日」を九州年号「正和」とするには、年干支の不一致や「夘月」という表記成立時期の問題があるため困難なのですが、それら以外にも下部に大きく記された「梵字」の伝来時期という課題も横たわっています。
 満月寺五重石塔の下部の四角四面部分に「梵字」四文字が大きく彫られています。この「梵字」も中近世の石造物(五輪塔や多層石塔、板碑など)によく見られるものです。この満月寺石塔の「梵字」は大日如来を囲む金剛界四仏のこととされ、キリーク(阿弥陀)・タラーク(寶生)・ウーン(阿閦)・アク(不空成就)の四文字が彫られています。
 「梵字」とはウィキペディアによれば、「日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。」と説明されています。もちろん、この解説は大和朝廷一元史観に基づいていると思われますから、梵字や密教の九州王朝(倭国)への伝来がいつ頃かは不詳とせざるを得ません。しかし、六世紀の金石文や七世紀の史料などに「梵字」は見えませんから、満月寺五重石塔の造立を六世紀とすることはやはり困難と言わざるを得ません。(つづく)


第2027話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(3)

 鶴峯戊申が『臼杵小鑑』で紹介した満月寺石仏の「正和四年卯月五日」の刻銘は現存しないようですが、満月寺には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された五重石塔が現存しています。その下部から次のような刻銘が読み取れます。

【満月寺五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 このように「正和四年乙卯夘月五日」とあり、年干支が「乙卯」と記されていますので、九州年号「正和四年」の年干支「己酉」と一致しません。
 他方、「正和」という年号は鎌倉時代にもあります。その正和四年(1315)の年干支は「乙卯」であることから、この五重石塔は鎌倉時代の正和四年乙卯(1315)の造立であることがわかります。この石塔の刻銘の写真を拝見しますと、干支の「乙卯」は縦書きの「正和四年乙卯夘月五日」とある文字列の中で「二行割注」のように横書きで「卯乙」と記されています。このように干支部分のみを小文字二行の横書きに記す例は中近世史料では普通に見られる書法で、同石塔に刻された「正和四年」(1315)の年次と矛盾なく対応しています。
 たとえば年干支二文字を小文字で横書きにされた金石文として、九州年号「朱鳥」が記された「鬼室集斯墓碑」が著名です。没年について次のように記されています。

 「朱鳥三年戊子十一月八日殞」

 一行の縦書きですが、年干支「戊子」部分の二字は小文字の横書きです。なお、年干支部分を小文字で横書きにするのは、鎌倉時代頃の金石文からよく見られるようになるといわれています。
 また、「夘月」という表記も六世紀前半にまで遡る例は国内史料には見えず、10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に見える「うつき(卯月)」の例が国内史料では最も古いようです。このことも同石塔を九州年号の「正和四年」(529)とする理解を困難としています。その点、鎌倉時代の「正和四年」(1315)であれば全く問題はありません。(つづく)