『令集解』儀制令・公文条の理解について(3)
阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は過去にも『令集解』を史料根拠とした優れた論稿〝「古記」と「番匠」と「難波宮」〟(『古田史学会報』143号所収、2017年12月)を発表されています。そして今回は、『令集解』「儀制令・公文条」の新読解により、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする説を発表されました。
この見解はとても刺激的な内容です。しかしながら、この説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明が必要です。
そこで、まず下記の当該記事の読みについて、検討します。
○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行割注。
冒頭の「凡公文應記年者、皆用年號。」は『養老律令』の条文であり、それ以降(二行割注)は編者による条文の解説です。その解説では当時の律令解説書と思われる「釋」「古記」「穴」を引用し、「年号」とは具体的にどのようなものかを説明しています。そして、今回のテーマとなっている「問答」形式部分「問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」へと続きます。
わたしはこの解説部分を次のように意訳したことがあります。
「釋にいう。大寶・慶雲の類を年号という。古記に云う。年号を用いよ。大寶と記し、辛丑(干支)は注記しない類をいう。穴(記)にいう。年号を用いよ。これを延暦という。答う。近江大津宮の庚午年籍は何の法に依ったのか。答える。この文以前は未だ制度がなかったというのみ。」(「『令集解』所引「古記」雑感」『古田史学会報』143号所収、2017年12月)
これは意訳ですので、必ずしも厳密な訳ではありません。例えば。「問答」部分の「未制」を「未だ制度がなかった」としましたが、正確にはこの場合の「制」は動詞ですから、「未だつくらず」か「未ださだめず」と訓むのが妥当です。これを意訳して「未だ制度がなかった」としたのですが、この短い記事では、阿部さんのように、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立します。
いずれとも断定しがたいのですが、わたしとしては編者による条文説明部分が「年号」についての説明ですから、それに続く問答部分の中心テーマも「年号」についてと考えるべきと思われ、そうであれば「未制」とは、〝未だ年号をさだめず〟と理解するのが、文脈上穏当ではないかと思います。
更に詳細に論じれば、「問」部分に「未知、依何法所云哉」とあるように、「庚午年籍」が何れの「法」によって造籍されたのか「未だ知らず」と述べているわけですから、その「法」に「儀制令・公文条」のような条文があったのかどうかも知らないことになります。従って、「年号使用を規定した条文がなかった」とする理解はやはり難しいように思われます。
もっとも、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要であること、言うまでもありません。(つづく)