2019年11月一覧

第2036話 2019/11/05

評督の上位職は各「道」都督か(2)

 七世紀後半、評制の時代の九州王朝(倭国)の行政単位は近年の「古代官道」研究から次のようではないかと推定しています。

 倭国(倭王・天子)→各「道」(都督)→各「国」(国司?、国造、国宰)→各「評」(評督、評造)

 七世紀の出土木簡により、評制時代の行政単位が「国」「評」「里(五十戸)」であることは確かですが、「道」は見えません。また、「道」のトップと思われる「都督」が「国」の下位行政単位「評」のトップ「評督」を「国」の〝頭越し〟に任命したとする史料痕跡は今のところありません。しかしながら、『続日本紀』に気になっていた記事がありました。文武四年(700)六月条に見える次の「評督」記事です。

 「薩末の比売・久売・波豆、衣(え)評督の衣君県、同じく助督の衣君弖自美、また肝衝(きもつき)の難波、これに従う肥人らが、武器を持って、覓国使刑部真木らをおどして物をうばおうとした。そこで、竺紫の惣領に勅を下して、犯罪の場合と同様に扱って処罰させた。」(『続日本紀1』東洋文庫、直木孝次郎・他訳注)

 大和朝廷が派遣した「覓国使(くにまぎ使)」を「薩摩の比売」や「衣評督」等が襲ったため、「竺紫の惣領」に「決罰」を命じたという記事です。近畿天皇家の正史『続日本紀』に「評督」が出現するという珍しい記事で、古田先生も注目されていました。
 わたしが疑問に感じたのは、薩摩国内の特定地方(頴娃郡・肝属郡。肝属郡は後に設立された大隅国に編入)の「反乱者」への「決罰」を「薩摩国」の代表者(国司)ではなく、九州全体の代表者と思われる「竺紫の惣領」に命じたことです。もしこれが薩摩国全体の「反乱」であれば、その上位職と思われる「竺紫の惣領」に「決罰」を命じるのは妥当ですが、そのような大規模な「反乱」のようには記されていません。また、当該記事中で「竺紫の惣領」のみが実名が記されていないことも不審です。このような理由から、この記事に疑問を感じてきたのです。
 なお、同記事などを根拠として、「最後の九州王朝 鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」(『市民の古代』10集、1988年。市民の古代研究会編・新泉社刊)という論文をわたしは若い頃(32歳)に書きました。この「薩末の比売」は鹿児島県に伝わる「大宮姫伝説」の「大宮姫」のことで、九州王朝の天子・薩野馬の皇后とする論稿です(現地伝承では天智天皇の后とされる)。古田先生に入門した年の翌年のもので、古代史の長文論文としては処女作です。
 ここに見える「竺紫の惣領」は、『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」の「都督」かもしれません。ただし、文武四年(700)という九州王朝最末年の記事ですから、九州王朝が任命した方面軍(各「道」)の都督が健在であったのかは今のところ不明とせざるを得ません。冒頭に記した九州王朝の行政単位の当否と、「評督」任命権者を各「道」の都督としてもよいのか、古田先生の指摘をヒントに考察を続けてみましたが、史料不足もあり、まだ断定しないほうが良いように思います。引き続き、研究します。

《追記》「大宮姫伝説」については、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から優れた論稿「大宮姫と倭姫王と薩摩比売」(『倭国古伝』収録。古田史学の会編・明石書店。2019年)が発表されています。ご参照下さい。


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。


第2033話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)

『多元』No.154に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」を興味深く拝読しました。服部さんは金石文に九州年号の使用が少ない理由として、「九州王朝律令」に九州年号の使用を命じた条文がなかったので、人々は「年号」よりも使い慣れた「年干支」を使用したためとされました。そして、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説を紹介されました。
 その阿部さんの説は下記のブログに掲載されています。関係部分を転載します。

【以下、転載】
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/43fed8a15ed5361aecdc521c482058b4
「古田史学とMe」 2017年09月10日
「那須直韋提の碑文」について(三)

 (前略)これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

 「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。(後略)
【転載おわり】

 博識で律令に詳しい阿部さんらしい論証です。阿部さんは『令集解』「儀制令・公文条」の解説部分にある「庚午年籍」に関する問答を根拠に、〝「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかった〟〝「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかった〟とする見解を用心深く表明されています。
 これはわたしの見解とは異なりますが、こうした異説・異論の発表は学問・研究にとって大切なことであり、しかも史料根拠(エビデンス)や論理展開(ロジック)も明解で、歓迎したいと思います。(つづく)


第2032話 2019/11/02

『多元』No.154のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.154が届きました。拙稿「古田学派の目標と未来 ー小笹豊さん『九州見聞考』の警鐘ー」を掲載していただきました。同号には吉村八洲男さん(上田市)の「『曹操』墓と『蕨手文様』」や竹田侑子さん(弘前市)の「縄文時代、シュメール人は渡来したかー 発掘遺物にみるシュメール【1】」など、初めて知るような先駆的論稿が注目されました。
 また、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」が冒頭に掲載されており、そこで紹介された阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の見解にわたしは触発されました。とても興味深い見解でしたので、別途、論じたいと思います。


第2031話 2019/11/01

難波京朱雀大路から大型建物と石組溝が出土

 前期難波宮九州王朝複都説に反対する論者からは、七世紀中頃の難波宮の存在を否定したり、上町台地上の日本列島内最大級の遺構(古墳時代〜前期難波宮時代)を矮小化する見解が未だに見られるのですが、そうした見解に対して考古学的出土事実は〝ノー〟を示し続けています。その新たな発見が『葦火』195号(2019年10月、大阪市文化財協会編集)に掲載されましたので紹介します。
 『葦火』195号で「難波京朱雀大路跡で古代の大型建物と石組み遺構を発見」という記事が発表されました。今回の出土地点は前期難波宮朱雀門(南門)から南へ約800mのところ(天王寺区城南寺町)で、豊臣秀吉が城下町として整備した古い寺町が残っているため、これまであまり発掘調査が進んでいない地域です。そこから、掘立柱建物1棟と南北方向の石組み溝が発見されました。建物の全体の規模は不明ですが、柱の規模から一般の建物としては大型のものとされています。
 石組みは、建物の西側を通る朱雀大路の(幅32.7m)よりも東側にあるため、朱雀大路の側溝ではなく、建物敷地内の溝と思われます。石組み溝内や柱抜き取り穴から七世紀中〜後葉の時期の須恵器や土師器、遺物が出土しており、溝と建物は前期難波宮の時期のものと考えられます。石組に使用された石材は前期難波宮の北西官衙の水利施設の暗渠に使用されたものと共通する、六甲や播磨地域を含む山陽帯の花崗岩が用いられていました。
 更にもう一つ大きな発見がありました。同遺構の前期難波宮造営時期かそれ以前に遡る可能性のある層位から、「奉」と推定される文字が刻まれた「陶硯」が出土したのです。土器に記された「奉」の文字としては、日本では最も古い事例になりそうとのことです。新羅でも陶器に「奉」の文字を刻む例があることから、新羅から伝わった祭祀文物とみる説もあるそうです。そして、次のように指摘されています。

 「硯の出土は、文書を扱う人が周辺で活動していたことを物語ります。今回見つかった建物が建てられる以前に、周辺に重要な施設があった可能性も想定する必要がありそうです。」(大庭重信・協会学芸員)

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を発表して以来、この十年間も前期難波宮や難波京が国内最大規模の王都・王宮であることを支持する出土が続いています。この考古学的事実を九州王朝説ではどのように説明できるのかという考究を続けた末の結論が、前期難波宮九州王朝複都説であることを是非ご理解いただきたいと願っています。


第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。