2020年01月一覧

第2074話 2020/01/31

『東京古田会ニュース』190号の紹介

『東京古田会ニュース』190号が届きました。本号には拙稿「古代の九州と信州の接点」を掲載していただきました。以前から注目されてきた、信州にある九州や九州王朝の痕跡を紹介した論稿です。たとえば、「高良社」「十五社神社」「筑紫神社」の存在や、同じ遺伝性疾患が信州と熊本県に濃密分布することなどを紹介しました。次の「洛中洛外日記」でも触れていますので、ご覧下さい。

【「洛中洛外日記」九州と信州関連記事】
 422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
 484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

 本号には安彦克己さん(東京古田会・副会長、港区)の論稿「安日彦の本拠地を探る」や同じく「日高見国の製鉄遺跡を巡る旅」が掲載されており、関東では『和田家文書』研究が活発に行われていることがわかります。関西でも同分野の研究者の登場が期待されます。


第2073話 2020/01/30

難波京朱雀大路の造営年代(8)

 都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。更に、年代が経るにつれて尺が長くなるという一般的傾向とも両者の関係は整合しています。
 しかし、意外なことに大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺とそれよりも先に造営された太宰府条坊(井上信正説)の設計尺は、前者が29.6〜29.8cm、後者が29.9〜30.0cmと、わずかですがより古い条坊設計尺の方が大きいのです。ただし、両者の尺の推定値には幅がありますから、より正確な復元研究が必要で、現時点では不明とすべきかもしれません。しかしながら、652年に造営された前期難波宮設計尺(29.2cm)よりも大きいことから、前期難波宮と太宰府条坊の造営の先後関係については自説(太宰府条坊の造営を七世紀前半「倭京元年」頃とする)の見直しを迫られています。
 自説の見直しや撤回は学問研究においては避けられないことです。なぜなら、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)だからです。わたしはこの言葉が大好きです。(おわり)


第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)


第2070話 2020/01/25

難波京朱雀大路の造営年代(5)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という問題に対する高橋さんの説明により、前期難波宮造営尺と難波京条坊造営尺は前期難波宮造営時期(七世紀中頃)に併存していたことがわかり、わたしの疑問は解決されました。
 一つの宮都造営に二つの異なる「尺」が使用されているという前期難波宮・京の考古学的事実に対して、わたしは次の二つのケースを想定していました。

(A)造営時期が異なっている。前期難波宮を「尺(29.2cm)」で築造した後に「尺(29.49cm)」で条坊を区画し、条坊都市を造営した。
(B)造営に関わった勢力が異なっている。前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営した。

 高橋さんの二つの異なる尺が前期難波宮造営時期に併存していたという考古学的事実を根拠とする見解は有力です。その知見を知り、わたしが想定した二つのケースのうち、(A)が否定されたため、孝徳期に限っては(B)が妥当であることが分かったのです。このことは前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しています。(つづく)


第2069話 2020/01/24

難波京朱雀大路の造営年代(4)

 今回の「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは大きな刺激と数々の考古学的知見を得ました。中でも、前期難波宮や難波京条坊の造営時期と発展段階について抱いていた論理上の作業仮説が考古学的発掘調査結果と整合していたことがわかり、これは大きな成果でした。しかし、わたしは更に重要な事実を高橋さんからお聞きすることができました。それは、以前から「解」が見つからずに悩んできたテーマ、すなわち前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という難問についてです。そのことについて質疑応答のときに高橋さんにおたずねしたのです。
 高橋さんの回答は次のようなものでした。

①前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)が異なっていることを根拠に、条坊造営を天武朝のときとする意見がある。
②しかし、両尺が前期難波宮造営時期に併存していた痕跡がある。
③それは、前期難波宮と同時期の七世紀中頃に造営された西方官衙の位置が条坊造営尺(29.49cm)により区画されていたことが判明したことによる。

 このような高橋さんの説明により、わたしの疑問は氷解したのです。(つづく)


第2068話 2020/01/23

難波京朱雀大路の造営年代(3)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

①前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
②難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
③朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期やその発展段階の概要には説得力があり、異論はないのですが、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、なお解決しなければならない問題があるように感じています。というのも、朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があることから、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
 二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で、前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る「難波大道」を七世紀中頃の造営とする次のような考古学的根拠の解説を聞きました。
 通説では「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。
 この「難波大道」の造営時期と高橋さんの指摘がどのように整合するのかが課題のように思われるのです。(つづく)


第2067話 2020/01/22

難波京朱雀大路の造営年代(2)

 高橋さんの〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という論理性に基づく指摘が正しいことを証明するかのように、近年、上町台地から次々と条坊の痕跡が出土しました。たとえば次の遺構です。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』一四七号)
2.中央区上汐一丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六六号)
3.天王寺区大道二丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六八号)

 以上の三件は、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したと考えられるに至っています。とりわけ、2.の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものとされており、七世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。
 これらの出土事実に基づく論理の到着点について、『古田史学会報』123号(2014年8月)の「条坊都市『難波京』の論理」において、わたしは次のように説明しました。

 【以下、転載】
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐一丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道二丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。
 【転載おわり】(つづく)


第2066話 2020/01/21

難波京朱雀大路の造営年代(1)

 1月19日に開催された「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)では、高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)と正木 裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)による講演がなされました。テーマは次のとおりで、いずれも最新の研究テーマを含み、新年を飾るにふさわしい優れたものでした。

○「難波宮・難波京の最新発掘成果」高橋 工さん
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」正木 裕さん

 中でも高橋さんの難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告は新知見と示唆に富んだもので、とても勉強になりました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という指摘は素晴らしく論理的です。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。
 というのも、わたしも前期難波宮九州王朝複都説に至る前から同様の考えを持っていたからです。そのことを『古田史学会報』123号(2014年8月)の拙論「条坊都市『難波京』の論理」において、次のように記したことがあります。

 【以下、転載】
 わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.七世紀初頭(九州年号の倭京元年、六一八年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(十四朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。
 【転載おわり】(つづく)


第2065話 2020/01/20

「麛坂王・忍熊王の謀反」は

  倭国(九州王朝)と銅鐸圏の争い

 一昨日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂で開催されました。2月と3月はI-siteなんば、4月はドーンセンターで開催します。
 今回の「古田史学の会」関西例会で、最も衝撃を受けた発表が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟でした。神功紀などに見える麛坂(かごさか)王・忍熊(おしくま)王と武内宿禰との戦闘譚は、邪馬壹国の女王壹與(いちよ)時代の倭国と銅鐸圏との正規軍同士による戦争説話の神功紀への転用とする仮説です。
 史料根拠も明白であり、論理展開に矛盾や飛躍も無く、仮説としては成立すると思うのですが、『日本書紀』編者がなぜそのような形で転用しなければならないのか、その積極的な理由があるのか、わたしには理解できませんでした。そこで、この仮説に至った理由を正木さんにたずねてみました。
 正木説のポイントは、敗勢になった忍熊王が本拠地の大和ではなく近江方面に逃げようとしたということで、近江の地は後期銅鐸圏の中心領域であり、麛坂王・忍熊王がその地を本拠地としていたと考えれば、この逃避ルートを選んだことがうまく説明できます。この説明を聞いて、わたしもこの正木説の有力性に気づきました。『古田史学会報』での発表が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔1月度関西例会の内容〕
①装飾古墳の蕨手文と双脚輪状文などの原像(大山崎町・大原重雄)
②「国県制」考(八尾市・服部静尚)
③籠神社の鏡(その2)(京都市・岡下英男)
④武内宿禰は倭王(奈良市・原 幸子)
⑤神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」(川西市・正木 裕)
⑥神功・応神伝説に関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑦『日本書紀』と「③帝紀」の決定的な違い(東大阪市・荻野秀公)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆会費納入状況、新入会員の報告・他
 未納者には『古田史学会報』2月号の発送を停止。

◆「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)
 01/19 13:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
【演題・講師】
○「難波宮・難波京の最新発掘成果」 13時30分〜15時
 高橋 工氏(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」 15時10分〜16時40分
 正木 裕氏(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
【参加費】1,000円 定員70名(事前予約不要)
【懇親会】当日、会場で受け付けます。(参加費は別途)
【共催団体】和泉史談会、古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会、ほか

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 02/15 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば 実施済み
 開催中止03/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば開催中止
2/23新型コロナウイルス対策として、 I-siteなんばでの 古田史学の会・関西3月21日例会は開催中止となりました。
 開催中止04/18 10:00〜17:00 会場:ドーンセンター開催中止
 開催中止05/16 10:00〜17:00 会場:福島区民センター開催中止

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰。会場:森ノ宮キューズモール) 参加費500円
 01/31(金) 18:30〜20:00 「『日本書紀』一三〇〇年の欺瞞」講師:正木 裕さん。
 開催中止02/28(金) 18:30〜20:00 未定

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 02/04(火) 10:00〜12:00 (会場:奈良新聞本社)
    「誰も知らなかった万葉歌(6)壬申の乱と天武・持統の真実」講師:正木 裕さん。
 開催中止03/03(火) 10:00〜12:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子の実像を求めて」講師:正木 裕さん。開催中止
 開催中止04/07(火) 13:00〜17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    日本書紀完成1300年記念講演会開催中止
    講師:正木裕さん、服部静尚さん、満田正賢さん、大原重雄さん、古賀。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
 02/11(火) 14:00〜16:00 「誰も知らなかった万葉集」講師:正木 裕さん。
 開催中止03/10(火) 14:00〜16:00「(仮)池上曽根遺跡と泉州の古代」
   講師:高瀬裕太さん(大阪府立弥生文化博物館学芸員)。開催中止

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
02/18(火) 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(2)本当は不思議な高砂」講師:正木 裕さん。
03/17(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その1)二倍年歴の世界」講師:服部静尚さん。
開催中止04/21(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その2)解明された万葉の染と色」講師:古賀達也。開催中止

◆久留米大学講演会(久留米大学御井キャンパス)
 03/15(日) 講師:服部静尚さん。


第2064話 2020/01/15

『九州倭国通信』No.197のご紹介

 先日参加した「九州古代史の会」新春例会で、会報『九州倭国通信』No.197を頂きましたので紹介します。

 同号には拙稿「『古田武彦記念古代史セミナー』の情景」を掲載していただきました。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の雰囲気を紹介し、九州の古代史ファンに参加を呼びかけました。

 同号の表紙には筑前国分寺(太宰府市国分)の塔礎石跡の写真が掲載され、最終ページに「筑前国分寺の不思議」という説明文が付されていました。その説明によれば、同遺跡からは古式の老司系瓦が出土しており、創建年は天平三年(七四一)の聖武天皇による国分寺創建の詔勅よりも早い可能性が示唆されていました。わたしも九州王朝による多元的国分寺(国府寺)創建という仮説を提起してきましたので、とても興味深い記事と思いました。


第2063話 2020/01/12

「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加

 帰省を兼ねて、本日の「九州古代史の会(木村寧海代表)」新春例会と新年会に参加しました。会場はももち文化センター(福岡市早良区)、講演テーマは下記の通りでした。中でも古賀市の考古学者、甲斐孝司さんによる船原古墳出土品(馬具など)の最新技術による調査解析方法の説明は圧巻でした。恐らく世界初の技術と思われますが、それは次のようなものでした。

 ①遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
 ②次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この①と②で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
 ③そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
 ④遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 このような作業により船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元でき、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存され、研究者に活用されるという、最先端で最高水準の発掘調査方法が、甲斐さんら現地の発掘担当者と九州大学の協力チームにより、それこそ手探りで作り上げられたことが報告されました。
 福岡市天神の平和楼で開催された新年会でも甲斐さんを交えて、考古学の最先端テーマや作業仮説について質疑応答が続けられ、とても有意義な集いとなりました。講師の皆さんをはじめ、「九州古代史の会」の方々に厚く御礼申し上げます。
 二次会でも前田さん(九州古代史の会・事務局長)、金山さん(九州古代史の会・役員)、講師の山下さん、古くからの友人である松中さん(九州古代史の会、古田史学の会の会員)と夜遅くまで天神の居酒屋で歓談し、親睦を深めることができました。

(1)考古学資料に見る天孫降臨
  講師 山下孝義さん(九州古代史の会・幹事)
(2)広開土王碑の中の「倭」
  講師 木村寧海さん(九州古代史の会・代表)
(3)鹿部田淵遺跡・船原古墳について
  講師 甲斐孝司さん(古賀市教育委員会 文化課業務主査)