『平安遺文』に見える観世音寺「天智天皇草創」説
「洛中洛外日記」2078話(2020/02/08)で、文明12年(1480)に観世音寺を訪れた宗祇の『筑紫道記』に見える観世音寺「白鳳年中草創」記事を紹介しました。同様の認識が平安時代(12世紀初頭)の観世音寺側にもあったこと示唆する史料が『平安遺文』に収録されています。次の史料です。
○筑前國観世音寺三綱等解案
「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(1064)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡した。」(古賀訳)
元永二年(1119)三月二七日
『平安遺文』〔一八九八〕所収。※内閣文庫所蔵観世音寺文書
康平七年(1064)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂のみが火災を免れたのですが、その55年後の元永二年に観世音寺から出された上申書の下書き「解案(げあん)」です。
観世音寺の三綱(寺院を管理する僧職の総称)が書いた公文書に、「當伽藍は是天智天皇の草創なり」とあり、観世音寺の公的な見解として、当寺の草創が天智天皇によるとされているわけです。他の史料に見える観世音寺創建年「白鳳十年」(670)は天智天皇の末年に相当し、この「解案」の内容と対応しています。
このように、平安時代においても観世音寺の僧侶たちがその草創年代を七世紀後半(天智天皇草創)と主張していることは重要です。また、この「解案」は近畿天皇家の時代、律令制下の公文書ですから、「天智天皇の草創」とだけ書き、九州王朝の年号「白鳳」の使用を避けていることも偶然では無いように思われます。現地ではこの時代でも、四百年前の九州王朝や九州年号の存在が伝承されていたのではないでしょうか。