三十年ぶりの鬼室神社訪問(3)
九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されている鬼室集斯墓碑は、江戸期文化二年(一八〇五)に仁正寺藩(のち西大路藩)の藩医西生懐忠(にしなりあつただ)らによって蒲生郡日野町小野から「発見」され、銘文が解読、広く世に紹介されました(発表は翌文化三年)。
しかし、発見当時から偽造説が出され、真贋論争が勃発し、現在に至っています。たとえば蒲生郡の郷土誌『東桜谷志』(日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)所収、瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」には次のような偽造の根拠が掲げられています。
〝西生懐忠と同時代の坂本林平という人が書き残した『平安記録楓亭雑話』に次の記事がある。
「小野村の三町ばかり上み、西明寺へ行く道の左側の方に高さ三尺ばかりの自然石あり、昔より隣郷の里人人魚塚と言い伝えり、また同村西宮と称する社地に、高さ三尺に足らぬ子石立てり、是も人魚塚と唱へ来れり、然るに此石を西生と申す医、佐平鬼室集斯等の墓なりと申し出て、高貴の御聞に達し人を惑す罪軽からず、元より右の石は能くしりはべりしに文字は決してなし。本より拠なし、只此の辺石燈篭に室徒中とあり付ければ、是にて思い付きしならんか。」
この記述でもわかるように、直接西生懐忠と出会っている坂本林平は、この石のことをよくよく前から知っており「文字は決してなし」と前に掲げた墓石の文字がこの時には無かったことを記し、鬼室集斯の墓でないと、この時にはっきりと否定している。〟
このように、瀬川欣一さんは墓碑の「発見者」西生懐忠と出会っている坂本林平の証言「文字は決してなし」を偽造の根拠の一つとされました。(つづく)