「大宝二年籍」断簡の史料批判(16)
本シリーズも16回目になって、ようやくテーマの〝「大宝二年籍」断簡の史料批判〟に入ることができました。ですから、今までは〝前説〟であり、今回からが本番です。気持ちを引き締めて論じます。
「大宝二年籍」とは国内では現存最古の戸籍で、大宝二年(702年)に造籍されたものです。その前年に成立した『大宝律令』「戸令」に基づき、九州王朝(倭国)から王朝交替したばかりの大和朝廷(日本国)により、全国的に造籍されたものです。残念ながらほとんどが失われ、残っているのは西海道戸籍(筑前国、豊前国、豊後国)と御野国(美濃国)戸籍の一部(断簡)だけですが、古代の戸籍や家族制度を知る上で貴重な史料(重要文化財)です。なお、今回の調査は『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)によりました。
先行研究によれば、「大宝二年籍」において西海道戸籍と御野国戸籍には大きな差異が認められ、西海道戸籍は様式や用語が高度に統一されています。通説では西海道戸籍は『大宝律令』に基づき大宰府により統一的に管理され、御野国戸籍は古い「浄御原律令」に基づいて造籍されたためと考えられています。西海道戸籍は九州王朝による造籍の伝統と優れた地方官僚組織を引き継いだため、高度で統一性を持った造籍が可能だったとわたしは推測しています。いずれにしましても、この西海道戸籍と御野国戸籍の差異は史料批判上留意すべき点です。
ちなみに、2012年に太宰府市国分松本遺跡から出土した7世紀後半頃(「評」の時代)の「戸籍」木簡の記述様式は、どちらかというと御野国戸籍に似ており、この点について「洛中洛外日記」445話(2012/07/21)〝太宰府「戸籍」木簡の「政丁」〟で少し触れました。更に、『古田史学会報』112号(2012/10)の拙稿〝太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―〟でも詳述しましたのでご参照下さい。(つづく)