倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(6)
『三国志』(中華書局本)を久しぶりに全巻読み通しました。わたしの好みでもありますが、「蜀書」姜維伝を読むと、なぜか胸が熱くなりました。横山光輝さんの漫画『三国志』に描かれた姜維の印象が強いこともあり、わたしは諸葛孔明と姜維のファンです。
『三国志』での「都」の字は、「都督」「都尉」などの役職名や行政名称の「京都」、地名の「成都」「陽都」「武都」などに使用される例が多いのですが、今回のテーマに関係しそうな、それ以外の「都」の例を下記に紹介します。見いだした全てを記載はしていませんし、重要な使用例の見落としがあるかもしれません。その場合はご教示下さい。
(1)「(初平元年)二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室」(一 7頁、魏書)
(2)「天子都許、拜洪諫議大夫」(一 278頁、魏書)
(3)「太祖議奉迎都許」「太祖遂至洛陽、奉迎天子都許」(二 310頁、魏書)
(4)「太祖迎天子都許」(二 322頁、魏書)
(5)「伍員絶命於呉都」(二 376頁、魏書)
(6)「天子都許、以(日/立)為尚書」(二 428頁、魏書)※(日/立):「日」の下に「立」
(7)「是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽」(二 466頁、魏書)
(8)「趙都賦」「許都」「洛都賦」(三 618頁、魏書)
(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
(10)「建安初、太祖迎天子都許」(三 665頁、魏書)
(11)「太祖始迎獻帝都許」(三 668頁、魏書)
(12)「時新都洛陽」(三 678頁、魏書)
(13)「凡帝王徙都立邑」(三 711頁、魏書)
(14)「都城禁衛」「都圻之内」(三 718頁、魏書)
(15)「時都畿樹木成林」(三 744頁、魏書)
(16)「楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌」(三 758頁、魏書)
(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」(三 762頁、魏書)
(18)「積穀干許都以制四方」(三 775頁、魏書)
(19)「都於丸都之下」(三 843頁、魏書)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」(三 855頁、魏書)
(21)「興復漢室、還干舊都」(四 920頁、蜀書)
(22)「曹公議徙許都以避其鋭」(四 941頁、蜀書)
(23)「陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛、鄧、若二敵不平、軍無還期」(四 993頁、蜀書)
(25)「卓尋徙都西入關、焚燒雒邑」(五 1097頁、呉書)
(26)「權自公安都鄂、改名武昌」(五 1121頁、呉書)
(27)「權遷都建業」(五 1135頁、呉書)
(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
(29)「此都無所損、君意特有所忌故耳」(五 1160頁、呉書)
(30)「從西陵督歩闡表、徙都武昌」(五 1164頁、呉書)
(31)「晧還都建業」(五 1166頁、呉書)
(32)「呉都言掘地得銀」「呉都言臨平湖自漢末草穢壅塞」「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」(五 1171頁、呉書)
(33)「自權西征、還都武昌」「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
(34)「自今蔽獄、都下則宜諮顧雍」(五 1239頁、呉書)
(35)「事畢還都」(五 1250頁、呉書)
(36)「後召還都、拜(津)右護軍、曲領辭訟」(五 1287頁、呉書)
(37)「權破羽還、都武昌」(五 1310頁、呉書)
(38)「及還都建業」(五 1311頁、呉書)
(39)「黄龍元年、權遷都建業」(五 1340頁、呉書)
(40)「及求詣都」「葬送東還、詣都謝恩」「太元元年、就都治病」(五 1354頁、呉書)
(41)「權遷都建業」(五 1364頁、呉書)
(42)「又恪有徙都意、使治武昌宮、民間或言欲迎和。及恪被誅、孫峻因此奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死」(五 1370頁、呉書)
(43)「晧徙都武昌」(五 1400頁、呉書)
(44)「非王都安國養民之處」(五 1401頁、呉書)
(45)「既定荊州、都武昌」(五 1411頁、呉書)
(46)「權下都建業」(五 1414頁、呉書)
(47)「初、權黄龍元年遷都建業」(五 1434頁、呉書)
(48)「北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州」(五 1436頁、呉書)
(49)「太元元年、權寝疾、詣都」(五 1443頁、呉書)
(50)「而都下諸官、所掌別異」「定送到都」(五 1468頁、呉書)
※『三国志』中華書局本(2000年北京第15次印刷)
以上のような「都」の用例が見られました。(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」が今回のテーマである倭人伝の記事です。なお、『三国志』本文中で夷蛮の諸国に「都(みやこ)」記事があるのは、毋丘儉(カンキュウケン)伝(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都」と倭人伝(20)と高句麗伝(19)だけです。このことを検討会で古田先生が指摘されたのを懐かしく思い出しました。(つづく)