新・法隆寺論争 (2)
「法隆寺移築年代の考察と課題」
若草伽藍の発掘により、法隆寺の再建・非再建論争に決着がついたことは有名です。しかし、非再建説の根拠とされた金堂や五重塔などの様式の古さという建築史上の諸問題は残されたままでした。それを解決したのが、古田史学の研究者、米田良三さんによる法隆寺移築説でした(注①)。すなわち、創建法隆寺(若草伽藍)が天智九年(670)に全焼(注②)した後、6世紀初頭に建立された別の寺院が移築されたものが現・法隆寺とする法隆寺移築説です。
現在ではこの移築説を示唆する論者もおられるようですが、学界内では米田さんの先行研究が触れられることもなく、この状況は学問的にアンフェアではないでしょうか。わたしはこれからも米田さんの業績(プライオリティ)を訴え続けるつもりです。
この法隆寺の移築元の寺院名や原所在地は不明ですが、移築時期については和銅年間頃とする説や持統期には再建されていたとする説があります。これまでわたしは、和銅年間での移築再建と考えてきましたが(注③)、それを否定する金石文があることに気づき、よくよく検討しなければならないと思うようになりました。その金石文とは、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」です。(つづく)
(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
②『日本書紀』天智九年四月条に次の記事が見える。
「夏四月の癸卯の朔壬申(.付箋文三十日)に、夜半之後に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋も餘(あま)ること無し。」
③古賀達也「法隆寺移築考」(『古田史学会報』92号、2009年)
古賀達也「法隆寺の菩薩天子」(『古田史学会報』97号、2010年)