古代日本の和製漢字
(国字)法隆寺「多聞天光背銘」
わが国最初の国字とみなされることもある例が『文字と古代日本 5』に紹介されていました(注①)。それは、やはり「聖徳太子」と関わりがある法隆寺金堂の「四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕という字です。同書では次のように解説されています。
〝白雉元年(六五〇)「法隆寺金堂四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の名に含まれる「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕は、最初の国字とみなされることがあるが〔杉本つとむ―一九七八〕(注②)、朝鮮、日本でも見られた中国製字体(「門」→「˥」)に、日本化字体(「才」→「手」)が重なった「閉」の異体字であると考えられる。「玉門」「陰門」のように、「門」を女陰にあてる引伸義を、さらに応用したもので、読みが近世以来説かれている「まら」だとすれば、日本製字義(国訓)である可能性があり、その最古の例となるが、「へ」という音仮名という可能性も残されている。〟284頁
冒頭に「白雉元年(六五〇)」とあるのは、同四天王の広目天像光背銘に見える「山口大口費」が『日本書紀』白雉元年是年条に見える「漢山口直大口、詔を奉(うけたまわ)りて、千仏の像を刻る。」の「山口直大口」と同一人物と考えられ、広目天像もこの頃に造られたとされていることによります。
法隆寺の「観音像造像記(銅板)」の銘文中の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔山偏を口偏に換えた字体〕、『法華義疏』の国字に加えて、法隆寺金堂多聞天像の「*閉」など、いずれも「聖徳太子」(九州王朝の多利思北孤)に関係する文物に「国字」が見えることは、九州王朝による「新字」作成説の傍証となりそうです。(つづく)
(注)
①笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
②杉本つとむ『異体字とは何か』桜楓社、1978年。