2021年02月18日一覧

第2384話 2021/02/18

「蝦夷国」を考究する(4)

 ―『続日本紀』〝失われた蝦夷国〟―

 新野直吉さんの論稿「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」(注①)では『続日本紀』の記事などを史料根拠として、多賀城碑に見える「蝦夷國」を〝日本の中の北方の一部族〟とされ、〝北に独立国があったということではない〟とされました。
 本シリーズの(2)「『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国」で紹介したように、『日本書紀』斉明五年条(659年)には明確に唐へ朝貢する国家としての「蝦夷国」の記事が見られます。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。……」

 この斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも「蝦夷国」のこととして記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、659年、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。

 このように斉明五年条(659年)の記事だけですが、『日本書紀』には「蝦夷国」という表記があります。この他にも、崇峻二年七月条に「蝦夷の国の境」という次の記事が見えますが、これは〝蝦夷国の境〟と理解するべきです(注②)。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 この記事によれば、東山道の先に「蝦夷国」との国境があったことがわかります。他方、東海道の「東方濱海諸国境」と北陸道方面の「越等諸国境」は「諸国」(複数国)表記であり、東山道の「蝦夷国境」が「蝦夷諸国境」とされていないことは重視すべきです。この記事は、「蝦夷」を〝日本の中の北方の一部族〟の集合体とする理解を否定するのです。
 ところが『続日本紀』になると「蝦夷」表記はあるのですが、「蝦夷国」という〝国号〟表記は見えないようです(注③)。『日本書紀』が九州王朝(倭国)の存在を隠したのと同様に、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(正確には文武以後)の歴史を記した『続日本紀』では「蝦夷国」の表記を採用せず、〝蝦夷国はなかった〟ことにしたのではないでしょうか。
 ですから、蝦夷国の〝国家〟として実態を解明するためには多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないようです。〝失われた蝦夷国〟への考究は続きます。(つづく)

(注)
①新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。
②『日本書紀索引』(吉川弘文館、1969年)は、崇峻二年条の「蝦夷国境」を「蝦夷国」(地名)の項目ではなく、「蝦夷」(件名)に入れている。これは、〝蝦夷は国に非ず〟とする通説に基づいた分類ではあるまいか。
③『続日本紀索引』(吉川弘文館、1967年)によれば、『続日本紀』中に「蝦夷国」(地名)はみえない。この点、『日本書紀索引』と同様の分類がなされていないか、精査が必要と考えている。