2021年04月一覧

第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。