2021年07月26日一覧

第2527話 2021/07/26

「土器編年」、関川尚功さんとの対談

 7月22日に京都市で開催された古代史講演会(市民古代史の会・京都主催)の後、講師の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と夕食をご一緒しました。大和の発掘調査に50年近く携わってきたベテランの考古学者と意見交換できる貴重な機会でしたので、わたしからは7世紀の土器編年について質問させていただきました。その内容は次のようなものでした。

〔古賀〕7世紀での飛鳥の土器編年と北部九州(太宰府など)の土器編年とでは年代差はありますか。あるとすれば何年くらいですか。
〔関川さん〕7世紀であれば同じと考えてよい。当時の土器職人の移動や土器製造技術の伝播は速いので、飛鳥と北部九州であれば年代差はないと思う。
〔古賀〕飛鳥編年は正確で、5~10年ほどの精度で編年できるとする考古学者の見解もありますが、±10年の幅はあるのではないでしょうか。
〔関川さん〕飛鳥編年は『日本書紀』(文献史学の判断)に基づいており、考古学的に土器様式で判断するのであれば25年の幅はあると思う。土器は長期間使用されるので、新様式の土器が発生したからといって、旧様式の土器がなくなるわけではない。

 以上のような対話が続きました。わたしも関川さんの見解(25年ほどの幅)に賛成です。以前にも、「洛中洛外日記」で土器や瓦の編年の難しさについて論じたことがあるのですが(注①)、土器編年には次のような難しさがついてまわるからです。

(a)土器の様式差や法量の違いによる相対編年にとどまる。
(b)土器による相対編年を暦年とリンクさせて絶対編年にするためには土器編年以外の方法に依らねばならないが、同一遺跡の同一層位とリンクできる他の暦年判定方法があることは極めて希である。
(c)同一層位から年代が異なる土器が共伴することはよくあることで、その場合、どの土器を重視するのかという判断が恣意的になる可能性がある。

 こうした問題点を理解した上で、なるべく客観的な手法や判断で出土物や遺構の編年がなされます。しかし、それでも同一遺跡に対する編年が考古学者間で異なる例は少なくありません。
 わたしたち古田学派には考古学を専門分野とする研究者が極めて少ないこともあり、遺跡に対して恣意的な判断がなされるケースが散見されます。わたし自身もそうだったのですが、太宰府関連遺跡の従来の土器編年は誤りであり、実際は百年ほど古くなるとする見解を漠然と信じていたこともありました。しかし、この10年間ほど、7世紀の須恵器編年の勉強を続けた結果、7世紀の土器編年はそれほど間違ってはいないことを知りました。たとえば大阪歴博などの考古学者による難波編年は、九州年号や多元史観による文献史学の成果とも見事に整合していました(注②)。
 他方、未だに解決できていない太宰府関連遺跡(政庁、条坊、水城、他)の造営年代には、九州王朝説に基づく文献史学と、出土土器による考古学編年とが整合しないケースがあります。一例として、大宰府政庁の造営年代があります。文献史学によれば白鳳十年(670年)創建と記されている観世音寺と同一尺が採用され、同じ老司式瓦で造営された政庁Ⅱ期遺構は同時期の造営とわたしは考えています。しかし、政庁Ⅰ期(新段階)やⅡ期の整地層からは7世紀第4四半期頃に編年されている須恵器坏Bが出土していることから(注③)、通説では土器編年により、観世音寺や政庁Ⅱ期の造営を8世紀第1四半期中頃とする見解が有力視されています(注④)。
 なお、政庁Ⅰ期・Ⅱ期の整地層からは古墳時代と見られる土器片や6世紀から7世紀前半に編年される須恵器坏Hなども出土しており、通説では整地に使用した土壌に古墳時代の土器が含まれていたと理解されているようです。同様の現象は前期難波宮整地層でも見られており、より新しい須恵器坏Bを重視した編年そのものは妥当と思われます。しかし、政庁Ⅱ期の成立について、文献史学(九州王朝説)の成果とは30~40年ほどの齟齬があるため、北部九州の須恵器坏Bの年代観の再検討が必要とわたしは考えています。残念ながら、考古学者を説得できるほどのエビデンスに基づく編年研究はまだできていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1764~1773話(2018/09/30~10/13)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)~(9)〟
②古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。