政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)
通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。
〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁
ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。
(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古
ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)
(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。