2022年01月一覧

第2659話 2022/01/12

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (9)

 「『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます」と「洛中洛外日記」2648話〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)〟に記しました。そうした疑念を裏付けるような調査記事があったからです。栃木県立図書館より提供された「レファレンス協同データベース(2015年09月11日)」(注①)です。関係箇所を抜粋して転載します。

【以下、転載】
〔質問〕中国唐代の1里は何メートルか。
〔回答〕資料によって異なる距離を示していました。
■唐・五代の1里は559.80mと記載している資料
○『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)
 p.巻末12に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 この表から、周の時代(-前256)から民国(1912-)までの1尺、1里等の基準単位の変化が分かります。
 お尋ねの「唐・五代(618-960)」の1里は559.80mとされています。
 なお、表の説明として次のとおり記載がありました。
 「本表は呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里および1畝の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。」
○『中国古典文学大系 14 資治通鑑選』(平凡社 1983)
 p.494に「中国歴代度量衡基準単位表」があります。
 先に挙げました『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』と同じ情報が掲載されています。
■唐代の資料に関連して1里を紹介している資料
○『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)
 p.416-417「『西域記』の「一里」の長さ」の項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里に関して複数の資料を紹介しています。
 この項で紹介されている資料は一里を約320m、約453m、454m、441mとしています。
■唐代の1里を約400~440mと考察している資料
○森鹿三/著「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究 5(6)』,438-441,1940-10-31、注②)
 以下の資料もお調べしましたが、お尋ねの内容は確認出来ませんでした。
○『図解単位の歴史辞典』(小泉袈裟勝/編著 柏書房 1989)
 p.194「中国の尺度・面積・量・重さの単位の変遷」に、周から清の時代までの基準単位の変化がまとめられています。
 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には「578m」とあります。
【転載終わり】

 「唐代の1里は何メートルか」という質問への回答として「資料によって異なる」とし、その根拠となる資料を紹介したものです。ここで注目されるのが次の三点です。

(1) 「唐・五代(618-960)」の1里559.80mは呉承洛著『中国度量衡史』(1937、商務印書館)によった。ただし、1里の数値は同書に出ていないので、1尺の数値を基にして機械的に算出した。
(2)『西域記』の「一里」の長さの項に、「一定の公認された数値としては今日なさそうである」としつつ、唐代の1里を約320m、約453m、454m、441mとしている。
(3) 「里(1800尺)」の欄には「清代まで制度にならず」とあり、清代には578mとある。

 この調査によれば、1里560m(559.80m)とする説が「1尺の数値を基にして機械的に算出した」結果であれば、唐代の1尺の実長(逆算すると、559.80m÷1800尺=31.1cm)が根拠となっていたわけです。また、『西域記』などの諸史料に記された里程記事を根拠とした場合、「一里」の長さが約320~441mと複数になるとのことから、『旧唐書』地理志の里程記事と同様の史料状況(1里の長さはバラバラ)を示しているようです。
 このように唐代の1里の実長について諸説ある以上、『旧唐書』の里程記事の数値を実際の距離と比較して倭国の位置・距離を論じるのは学問的に危うい方法とわたしは感じました。(つづく)

(注)
①「レファレンス協同データベース(事例作成日2015年09月11日)」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000185887
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。


第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。


第2657話 2022/01/09

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (8)

昨晩、友人達とリモートで新年の挨拶と勉強会を行いました。様々なテーマで意見交換や情報交換ができ、とても刺激的で有意義でした。なかでも昨年末から「洛中洛外日記」で検討を続けている〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」〟(注①)について、長里での理解も可能ではないかとする見解が日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から出されました。その主たる論旨は次のようでした。

(1) 『旧唐書』の記事からは「去京師一萬四千里」の根拠は不明とせざるを得ない。
(2) そのうえで、次のような視点に基づき、長里でも理解可能ではないか。
(3) 『旧唐書』百済伝にある、京師(長安)から百済(の都)までの距離「在京師東六千二百里」(長里とする)を重視する。
(4) 『隋書』俀国伝にある、百済から俀国までの距離「水陸三千里」も隋唐代の長里と見なし、『旧唐書』の6,200里に加算すれば9,200里となる(いずれも長里とみなす)。
(5) 更に朝鮮半島内の行程距離や、倭国の都を前期難波宮とすれば更に距離が伸びて、総里程は増える。
(6) 唐代の長里を一里400~500mとする諸説があり(注②)、それによれば14,000里は5,600~7,000kmであり、長安(西安)から難波(大阪)までの行程が道行きのジグザグ行程であれば、その総里程を「去京師一萬四千里」とする『旧唐書』の記事を長里で理解できるのではないか。

 以上のような日野さんの見解には解決しなければならない問題点が残されてはいますが、こうした視点・解釈があることを知り、とても勉強になりました。今のところ、ただちに賛成はしかねますが、検討すべき仮説と思いましたので、日野さんの了解を得て、紹介させていただきました。自説と異なる見解は学問の深化発展にとって貴重です。本テーマについては、日野さんの見解も含めて引き続き検討したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2642~2648話(2021/12/21~26)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)~(7)〟
②森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)には唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。この他にも諸説ある。


第2656話 2022/01/07

令和4年新春古代史講演会1月15日

令和4年新春古代史講演会1月15日

令和四年新春古代史講演会の画期

 1月15日(土)に開催される新春古代史講演会は学問的に重要なテーマがお二人の講師により発表されます。それは七世紀後半における倭国の王都王宮に関する考古学と文献学のコラボ講演会と言えるもので、古田史学・多元史観にとって重要な仮説発表の場となるからです。演題と講師は次の通りです。

○「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
○「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)

 佐藤隆さんは大阪歴博の考古学者として難波の発掘調査にたずさわられ、次の論文に代表される画期的な研究成果を発表されてきた考古学者です。

①「古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』大阪市文化財協会、2000年。
②「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、2017年。
③「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年。

 ①は土器の難波編年の論文で、『日本書紀』の記事に大きく依存している従来の飛鳥編年に比べて、年輪年代測定や干支木簡などの信頼性の高い資料に基づいて難波編年は暦年とリンクされており、特に七世紀では最も優れた編年です。
 ②は、七世紀後半の難波と大和の出土土器量などの比較により、『日本書紀』の記事と考古学出土事実が異なっていることを明言した画期的論文です。近年の考古学論文で最も優れたものとわたしは高く評価しています。
 ③は従来条坊の有無が不明だった前期難波宮の北西側に、基準尺が29.2cmで造営された条坊の存在を明らかにしたもので、難波宮の南側に広がる条坊の造営尺(29.49cm)とは異なり、前期難波宮造営尺(29.2cm)に一致しているとされた論文です。前期難波宮の条坊に異なる二つの基準尺が採用されていることが明らかとなりました。
 これらの佐藤さんの業績は素晴らしいもので、わたしたち古田学派にとっては、それではなぜ②や③の現象が発生したのかという疑問を抱き、多元史観・九州王朝説の視点から解明することが課題となります。講演会でそれらの問題解決のヒントが得られることを期待しています。
 佐藤さんの講演を受けて、正木さんからは難波京から藤原京への展開についての九州王朝説による最新研究が発表されます。佐藤さんが明示された考古学事実に、正木さんによる文献学によってどのような歴史像がを示されるのか、わたしは注目しています。古田史学ファンの皆さんや研究者には是非とも聞いていただきたい新春古代史講演会です。

《新春古代史講演会の概要》
◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 i-site なんば(大阪府立大学なんばサテライト)
◇参加費 1,000円
◇主催(共催) 古代大和史研究会、和泉史談会、市民古代史研究会・京都、市民古代史研究会・東大阪、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会

講演掲載

多元史観と文献学(『書紀』の資料批判)から見た前期難波宮と藤原宮 正木裕

 
@27:17@DSCN9567
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なお、佐藤先生の講演には近日に論文発表される内容があり現在は公開できません。
(発表後、先生のご了解をいただければ公開も検討したいと思います。)

第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。


第2653話 2022/01/01

新年のご挨拶と令和三年の回想

 「古田史学の会」会員並びに「洛中洛外日記」読者の皆様に新年のご挨拶を申し上げます。
 昨年はコロナ禍にあっても感染対策に配慮しながら古代史講演会や関西例会を開催することができました。ご協力頂きました方々に深く感謝いたします。また、久冨直子さん、竹村順弘さん、横田幸男さんらのご尽力により、リモート例会参加システムの運用も軌道に乗り、YouTubeによる動画配信コンテンツも充実してきました。これらのコンテンツは「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」から閲覧できます。
 学問研究分野においても、古田史学・多元史観に基づく優れた諸仮説が会員から発表されました。なかでも『古田史学会報』に連載中の正木裕さんによる九州王朝通史は、古田学派の最新研究成果を取り入れたもので、古田先生の『古代は輝いていた』以来の本格的な通史です。いずれは書籍として刊行されるものと期待が高まっています。
 令和四年も古田史学の継承と発展、そして古田説を世に広めるための事業に取り組んでまいります。会員・友人の皆様のご協力をお願い申し上げ、新年のご挨拶といたします。