2022年05月03日一覧

第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2736話 2022/05/03

『多元』No.169の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.169が届きました。同号には拙稿「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」を掲載していただきました。同稿は、近江地方から出土した無文銀銭や法隆寺創建同范瓦などと当地に色濃く遺る聖徳太子建立伝承を持つ寺院群について、九州王朝・多利思北孤と関係するものとして考察する必要性を論じたものです。
 拙稿の他にも古田史学の会・会員の服部静尚さんの「『続日本紀』に見える王朝交代の陰」や野田利郎さんの「京師を去る一万四千里」が掲載されました。八木橋誠さん(黒石市)の「『隋書倭国伝』は長里で書かれていない」は同紙168号の服部稿「隋・唐は倭国の東進を知っていた」への批判論文であり、注目しました。
 八木橋稿末尾には、拙稿「洛中洛外日記」2642~2648話〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」(1)~(7)〟への批判もなされており、興味深く思いました。『旧唐書』倭国伝に記された京師から倭国への距離「一万四千里」を倭人伝の短里「一万二千余里」と長里二千里の〝合計値〟とする拙論に対し、一万里が短里部分であり四千里を長里とする仮説を提起されたものです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させます。ご指摘については改めて検討させていただきたいと思います。