『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味
北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。
〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)
筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。
〝太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)
これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)
(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。