秦王と秦造
古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。
〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)
このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。
〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)
『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条
葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)
(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。