2023年01月06日一覧

第2909話 2023/01/06

舒明紀十一年条「伊豫温湯宮」の不思議

「古田史学の会」会員や「洛中洛外日記」読者から、毎日のように情報や質問が届き、とても勉強になっています。昨年末には、白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から興味深い質問が届きました。それは、舒明紀十一年(639年)十二月条に見える「伊豫温湯宮」を天皇の宮殿と考えてもよいかというもので、ちょっと意表を突かれました。

「十二月の己巳の朔、壬午(14日)に、伊豫温湯宮(いよのゆのみや)に幸(いま)す。」

翌年の夏四月、伊豫からの帰還記事が見えますから、これらの記事が正しければ舒明は四ヶ月も伊豫温湯宮にいたわけで、飛鳥の宮を留守にしていたことになります。

「夏四月の丁卯の朔、壬午に(16日)、天皇、伊豫より至(かへ)りおはしまし、便(すで)に厩坂宮(うまやさかのみや)に居(ま)します。」舒明紀十二年(640年)夏四月条

岩波の『日本書紀』頭注によれば、伊豫温湯宮を「松山市道後温泉にあった宮」、厩坂宮については「大和志は古蹟未詳とする」とあります。伊豫温湯宮とあることから、伊予国内の温泉地にある宮と解さざるを得ませんので、道後温泉にあった宮とすることは理解できますが(注)、そのような近畿天皇家の宮殿の造営記事は見えませんし、近畿には有馬温泉があるのですから、わざわざ船旅を経て伊予の温泉に行く理由も不明です。この記事が、九州王朝系史料からの転用であったとすれば、九州には太宰府の近隣に二日市温泉があり、豊後には別府温泉があるのに、わざわざ豊予海峡を渡り、伊豫温湯宮に四ヶ月も天子(天皇)がいた理由が、やはり不明です。
このように、白石さんが着目された「伊豫温湯宮」は不思議な記事なのです。そもそも、伊豫温湯宮に四ヶ月もいた天皇とは誰なのでしょうか。その天皇が帰ったとされる厩坂宮はどこにあったのでしょうか。おそらく九州王朝系の「天皇」と「厩坂宮」に関する記事の転用ではないかと思いますが、それでも九州王朝の天子の行動としては、その理由がよくわかりません。もしかすると九州王朝の天子(ナンバーワン)の下の天皇(ナンバーツー)の行動記事(湯治か)かもしれません。その場合、伊予を拠点としていた当地の(九州王朝から任命された)「天皇」と解すれば、有馬温泉でも別府温泉でもなく、伊豫温湯宮だったことの説明がしやすくなりますし、四ヶ月の長期滞在もあり得ることです。
なお、天皇の伊予来湯伝承を九州王朝によるものとする合田洋一さんの先行研究(『葬られた驚愕の古代史』他)があります。これからの白石さんの研究を待ちたいと思います。

(注)愛媛県には道後温泉の他にも古い温泉(西条市本谷温泉、今治市鈍川温泉)があり、「伊豫温湯宮」を道後温泉と断定するものではありません。